文政10年(1827)越後長岡藩に生まれる。父の代右衛門は家禄120石で、長岡藩の勘定奉行を務める家柄であった。
継之助は31歳で家督を継ぎ、外様吟味役となった。江戸、備中松山、長崎などに遊学、江戸では斎藤拙堂に学び、松山では山田方谷に学んだ。河井はその手腕を買われ、慶応4年(1868)に家老上席に上った。窮乏していた藩財政を立て直し、赤字を1年で解消したと言われる。
戊辰戦争の際、越後の殆どの藩が新政府軍に属する中、長岡藩だけは反対の姿勢を取り、また会津藩からの誘いもはねつけ、どちらにもくみしない中立の立場を貫いていた。新政府軍が越後に侵攻してくると、河井は小千谷の新政府軍本営を訪ね、自藩中立の立場を説明したが、新政府軍軍監岩村高俊はこれをはねつけ、会談は決裂、開戦となった。
河井は早速奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍が占拠する長岡南方の榎峠を会津・桑名両藩と共に奪回に成功した。
新政府軍も山県有朋らの指揮で、長岡城に奇襲をかけてこれを攻略。一反は退いた河井だが、湿地帯からの奪回を試み、烈しい銃撃戦の末、長岡城奪還に成功している。
だが、新政府軍の猛烈な巻き返しの中、河井は左脚を負傷。重傷で指揮もとれなくなり、長岡城は再び新政府軍におとされた。長岡軍は敗兵となって会津に向かった。河井の傷は悪化し、会津領にかかる八十里峠の手前の吉ケ原で自決を決意。
「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」
その後の説得で河井は八十里峠を越えて会津領に入ったが、塩沢村で42歳の生涯を閉じた。 |