継之助の勉学 ~勉学にはげむ~ |
藩校には、6歳のころから入る者が多かった。しかし、それは大体家庭において、素読の初歩的素養を修めた幼年者から入学できた。だから、軽輩者でも学問ができた者は、家塾を開き、上士の子弟を教授した。 継之助の父、代右衛門も継之助の教育には熱心であった。文学、剣術、馬術など藩内でも一流だと言われる学者の家塾に通わせた。だが、継之助にはあまり効果がなかったようだ。これは、多分に継之助の気性によるもので、形式を重んじる学問に、嫌悪感があったようだ。 長岡藩の藩校は、文化5年(1808)に追廻橋脇に建てられた。九代藩主の牧野忠精時代で、忠精は幕閣の老中職に登用された。藩主の栄達は、藩士、領民の名誉であった時代に、藩校は牧野忠精の命によって成立したのである。 学問は儒学中心であり、朱子学派一辺倒であるべきであったが、長岡藩は何故か徂徠学派と寛政異学の禁によって朱子学以外の儒学を禁じていたから、幕閣の中枢にいた忠精が徂徠学派の秋山景山を都講(校長)にしたことが、長岡藩校の面白さであった。しかし、継之助が入学したころはすでに徂徠学派はすたれており、古義学派と朱子学派に移っていた。
藩校で継之助が頭角を現したという話が聞かれないのは、そういった理由であろう。継之助が学問に目覚めるのは、11歳の時の陽明学者の反乱を聞いてからである。 天保8年(1837)2月19日、大坂町奉行元与力の大塩平八郎、養子の与力格之助が、市中放火して金銭を貧民に分ける事件があった。同年3月27日、大塩らは自殺し事変は終息したが、同年5月30日、越後柏崎町で一大騒擾事件が起こる。上州舘林の浪人で陽明学者の生田萬が起こした乱である。生田は「大塩の党、暴吏を懲らし、窮民を救う、賑恤を得むと欲する者は来れ」と民衆に呼びかけたのである。しかし、反乱はあっけなく鎮圧された。生田は妻子を刺殺し、自らも6月1日自裁した。 この騒動に、長岡藩は足軽頭由良覚左衛門、鬼頭六左衛門、目付松谷団右衛門、桜井藤右衛門ら足軽28人が出動している。長岡藩兵が柏崎町に到着したころには沈静していたが、そのむごたらしい結末は、長岡藩に伝聞されることとなった。
また、大坂の大塩平八郎の乱についての詮議は、翌9年8月から始まった。そのとき、主君牧野忠雅が大坂城代となって、その吟味を直接統括する立場にあった。「牧野家譜」によると、忠雅は病となり直接罪状の申し渡しには関与しなかったようだが、陽明学者の大塩平八郎の主張を糺す立場にあった。藩主に随従して大坂詰勤務の藩士もいただろうから、その惨状を伝え知ることができた。 父代右衛門が忠雅に随従して京都詰になるのは、天保11年(1840)1月21日のことであるから、もしかしたら大塩事件の詮議のときも大坂詰であったかもしれない。 「なぜ、陽明学を学ぶ者が民衆のために反乱を起こすのか。わが身、わが家族を失っても、義の旗を掲げるのか」 少年継之助の心を揺さぶった。 そのころ、秋山景山に代わって、藩校崇徳館の都講となったのは、高野松陰であった。高野は昌平坂学問所で学び、佐藤一斉の家塾の塾頭になった人物である。同じ塾生に佐久間象山、山田方谷がいた。佐藤は陽朱陰王と言われた儒学者だった。つまり、昼は朱子学を教え、夜は陽明学を教えたというのである。 長岡藩士の松陰は、佐藤一斉から朱子学、陽明学の両方を教えてもらった。その松陰の家塾の門を継之助らは叩く。その際、川島鋭次郎(三島億次郎)やその兄の伊丹政由らもいた。 こうして継之助は、陽明学に興味を持つようになる。 |