継之助の勉学
 ~ペリー来航~
 


 ペリーが来た!
嘉永6年(1853)6月3日、アメリカ合衆国インド東洋艦隊の四隻の軍艦が、ペリー提督に率いられて浦賀沖に現れた。ペリーは日本に開国を迫るのだ。
このペリーの来航は、当時の日本を震撼させた。河井継之助の年譜を見ると、彼はこの時、江戸に在住していたことになっている。好奇心が旺盛の継之助である。きっと巨大な軍監を目の当たりにすれば、大いに憤慨する所があっただろう。だが、継之助がこの事変に遭遇したという確証はない。
しかし、ペリー来航が継之助の人生を変針させた事は間違いない。三嶋億二郎の「扇浦日記」によると、三島は長岡藩邸の家老牧野市右衛門に呼び出されて、浦賀出張を命ぜられている。ペリー艦隊を探索せよというのである。長州藩の吉田寅次郎(松陰)も師の佐久間象山も急行しているから、象山門下の門人の一人であった継之助も同行していたかもしれない。
継之助らが見たとするペリー艦隊の偉容さや威嚇砲撃のすさまじさは、見物に集まった人々を驚愕させた。それを見た佐久間象山、小林虎三郎、吉田松陰らは悲憤に駆られ、直ちに攘夷行動を始めるべきだと宿屋で激昂したと三島の日記にはある。継之助がそこにいたとすれば面白いのだが、残念だが日記にその名は出てこない。
 牧野忠雅の提案
一方、幕府の対応は混迷を極めた。海岸付近で右往左往する役人たち。動員された諸藩の兵も、旧式の大砲を中心に呆然とするだけ。
このとき、阿部伊勢守正弘のもとに老中牧野備中守忠雅を擁する長岡藩の立場は重要な位置にいた。江戸城郭の一角の呉服橋近くの長岡藩上屋敷には、在府の藩士たちが召集された。そのとき、藩邸の頂点にいたのが、家老の牧野市右衛門であった。
牧野は愛宕下の中屋敷の長屋にいた留学生も、深川の下屋敷で普段女性たちの身の回りの世話をしている下僚たちも集めた。そして警備と探索を命じている。三島億二郎が浦賀沖の艦隊の様子の探索を命じられたのは、このときである。
三島は応接する役人の槍持になって、ペリーに近づき、容貌を監察している。
強硬に開国を要求するペリーの態度に、幕府首脳の対応は鈍く、外交交渉がやがて膠着状態となった。そうすると、牧野忠雅は広く人材を求め、意見を聴くこととなった。忠雅の柔軟な政治姿勢があったからこそ、幕府は幕末、一挙に崩壊しなかった一因ともいえるかもしれない。
例えば、阿部正弘が水戸の徳川斉昭に示した改革意見箇条書は、牧野と阿部が練り上げた幕府の安政改革の骨子であった。
一、大船製造の禁を解き、造船の業を起こす事。
一、汽船製造をオランダに託し、人を長崎にやって艦船の運用を伝習させること。
一、講武所を開き、洋式銃隊を編成し、練兵を奨励させること。
一、蕃書調所を創立し、洋書を講習させること。
一、官吏任用例に拘泥せずに人材を抜擢し要職に任ずること。
一、繁文縟礼を省き、諸藩献物の数を減らす事。
一、諸藩主および旗本の士の従者を減らし、冗費を省かせること。
などである。
 徳川斉昭も絶賛
これらの案は、機構改革や幕臣下僚の意識改革まで及び、新たに海防局を設置して、有能な学識者を出身を問わず集め、問題部局において、何でも話せるような場を設けて、課題の解決方法を引き出す機構を作り上げることを目標に改革案を練り上げていたのである。しかも、トップの方針を下に伝え、下からは、それぞれの専門の最新知識を上にあげる組織づくりを改革の中心に据えた。
開国か攘夷かで幕政が揺れる中で、今までの基本方針を見直して、近代的軍監の確保、操船、砲術技量の向上などを行う有為の人材に求めた事に卓見性があった。
徳川斉昭は、この改革意見箇条書には感心して、牧野忠雅を信用し、弾劾の矛先を向けなくなった。
これらをみても、牧野忠雅は凡庸な君主ではなかったことがわかる。その忠雅に河井継之助が見出される。当時、禄高百二十石。事務官吏の家柄出身の一留学生でしかない河井継之助が、日頃の見識の上に立った正論を上申し認められる。
それが、継之助が世に出るきっかけとなる。つまり、忠雅らが創案した改革要綱そのものを長岡藩にも適用し、広く人材を求めた結果が、幕末の長岡藩に河井継之助が登場する部隊を築いたといえる。のちの継之助の長岡藩における慶応改革は、主君牧野忠雅の影響を受けていた。




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