継之助の勉学
 ~宮路騒動を裁定~
 


 外様吟味役に
出資を渋っていた継之助に外様吟味役が回ってくる。安政5年(1858)32歳の時である。前年に父代右衛門が隠居したので、家督を相続していたが、河井の息子が無役では困るだろうから、外様吟味役を押し付けたのかもしれない。外様吟味役は、領内で発生した厄介な問題を特別に裁定する権限を与えられていた。
当時、北組宮路村で数年前から、庄屋の菊地氏と農民との間に軋轢が生じていた。それは長岡藩の安政改革の産業奨励策によって生まれた生産者と中間搾取層の紛争であった。宮路村は東山山麓に位置する比較的裕福な小村だった。小作は少なく本百姓が多かった。安政改革により、村の山には多くの蝋や漆の木が植えられて、副業収入が多くなった。
当然、税額も上昇し、藩財政に資することいなる。ところが、その生産者である農民から、庄屋がその税の何割かを搾取していると代官へ訴え出たのである。代官は庄屋を呼び出して、糾問すると庄屋は年貢と同様、庄屋の取り分はあるはずと答えたのである。この産業奨励の一番の搾取者は藩自体であった。代官はたちまち処理に行き詰まり、外様吟味役に裁可を委ねることになった。
 厄介な職務を押し付けられた継之助
最初、外様吟味役になったのは、藩校崇徳館で朱子学を教えていた陶山善四郎。理非を糺そうと尋問をしたが、次第に農村の構造が、産業を興す資本主義的なやり方と違うことに気付いてゆくことになる。従来の儒学思想で農民を治めようとしても、利益配分まで儒学が答えを出してはくれない。日頃から秀才と言われた陶山も、遂に裁定することなく辞職した。
その厄介な処理を任されたのが、継之助であった。藩の中枢部も厄介者の継之助だからこそ、担当させて恥を書かせてやれという気持ちもあったのかもしれない。
継之助は評定所に呼び出されて、直接山本勘右衛門から外様吟味役を命じられた。そこで断れば切腹させればよいことであったし、その裁定もどちらに転んでも良くはならないものだったから、山本らの重臣も継之助に期待してはいなかった。それに継之助を登用した10代藩主牧野忠雅は、この夏コレラで病死していた。継之助の処遇について、クレームをつける藩主がいなかったのである。
継之助は藩領北組の宮路村に赴き、庄屋の菊地某に会い、宮路村の事情を探った。当然、庄屋は自分の言い分を主張する。継之助は宮路村の状況については、あらかじめ猟に出たとき、把握していたようである。農民らが、庄屋屋敷を取り囲んでも少しも騒がなかった。農民の中には継之助を見知った者もいた。
裁判は20日間で結審したという。何年もかかった懸案をたった二旬で解決した。そのときの継之助の感慨が残っている。
 古哲は片言、大事を定む
 二旬の勤苦 未だ全く安ならず
 鈍刀断たず 徒らに物を傷る
 摩琢して  誰か霜刃をして寒からしめん
 矛盾に憤る継之助
上記の漢詩の意味は、古哲すなわち孔子の門人子路のような明智があれば、情状を明察し、切れ味すごい寸鉄の一刀で、この事件に判決を下すのであろうが、ぼんくらの私は逡巡して20日間も労苦を重ねて、その結果はうまくいかない。鈍刀を振り回して、自他を損なうように、この度の事件で心に傷を負うて、泣き寝入りをしている民はいないであろうか。抜けば玉散る氷の刃を磨き上げて、見事な切れ味にし、一刀両断にしたいものだ。
庄屋菊地某を非とし、農民には我慢をさせた己の裁定を不服として、再度、遊学を志して、その力不足であったものを補おうとする心意気が込められている。
改革と封建制の矛盾。新しく産業振興策を行えば、必ず噴出する生産者の不満。それを治政の立場から抑え込もうとする地方役人。代官は支配体制の末端ギリギリの限界から妥協を見出そうと努力しても、解消出来ない問題が残った。
裁定した継之助は、そういった仕組みの悪さを嫌と言うほど知ったのである。ではどうすればよいのか。陽明学で言う治道とは何か。そのためには、一地方官吏の自分をして、その矛盾を解き明かす学問を学び、江戸へ再び行こうと決心した。何もしないで埋没するより、とにかく行動することだと確信するのだ。




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