継之助の勉学 ~久敬舎に入塾~ |
板橋の宿場で休み、愛宕下の長岡藩邸中屋敷までは馬上に乗った。それが長岡藩の古くからのしきたりだというのだが、継之助には無駄な出費をしたとい思いしかなかっただろう。 中屋敷の長屋に落ち着き、重役にも挨拶を済ませ、古賀謹一郎が主宰する私塾の久敬舎に出かけて入門手続きを取った。久敬舎はかなり著名な塾で、諸藩からの入門者が多かった。 古賀の所に入門の仲立ちをしてくれたのは、川島億次郎であった。川島はすでに古賀の九敬舎に入っており、継之助なら古賀の久敬舎で優れた能力を伸ばすことができるのではないか、そう考えての紹介であった。古賀は継之助の性格を川島から聞いたのだろう。 継之助は久敬舎に入っても、別格が埒外に置かれたらしい。継之助は久敬舎では、師匠の講義、指導を受けず、書庫に入り込んでは古書を漁り、筆写した。その代表的傑作が「李忠定公集」の筆写であった。それを見た佐久間象山がその正鵠さ、気魄に驚愕して、題字を書いてやったという逸話がある。
そのたびに継之助の言動は成長し、変化したのであるが、師である古賀謹一郎の人生も大きく変化した。 幕府は開国政策を推進するにあたって、開明的な思考をする古賀謹一郎の意見を聴いた。特に老中、若年寄や外国奉行となった実力者の信頼が厚く、老中筆頭の阿部正弘も古賀に期待を寄せた。 長岡藩十代藩主牧野忠雅は、その阿部正弘を助けた次席老中であった。忠雅からみれば、古賀謹一郎の久敬舎門人の河井継之助は牧野家の家臣であった。 安政期の幕政は課題が続いた。ペリーの開国要求に始まり、国内では攘夷運動の高揚、朝廷工作の複雑さなどが展開し、こののち水戸藩への勅書下賜事件など、混迷する政局を迎えた。特に水戸藩主徳川斉昭への処遇は、幕閣を悩ませた。その処理の多くは次席老中の才覚で乗り切ろうとした。
牧野忠雅は、幕臣の中の若手の有能な者を登用し、広く政策意見を聴いた。忠雅によって、永井尚志らが登用されたのである。その登用された者たちが、勝海舟や大久保一翁等を登用して広く意見を聴いた。江戸在府の長岡藩士に意見を求めるのもそういった牧野忠雅の才覚によるものだった。 徳川斉昭は、幕閣に「海防愚存」という意見書を提出する。当時、阿部と牧野は海防掛老中を兼ねていたから、斉昭の意見を聴こうとした。しかし、それは国際的時勢にそぐわないものだと判断した。 |