山田方谷との出会い
 ~山田方谷とは~
 


 農民の身分だった
継之助が方谷に寄せた期待は、その実学、つまり実用の学問であった。そして方谷が「登用せられ、政事に預かり、国中神のごとく伏し」「いかにも慕わしく」思われた継之助の心情が、先の父親への山田方谷への師事の許可を願った文面からも読み取れる。
さて、山田方谷とはどのような人物であったのか。方谷は文化2年(1802)備中松山板倉藩領の北辺の中井村西方の地に生まれた。継之助は「安五郎と申す者、元来は百姓にて」と、父親宛の手紙に記していた。だが、山田家の祖先は戦国期の同地の豪族であり。毛利氏に属していたが、関ケ原戦役後は、毛利氏の削封により帰農してこの地に住み着いた。方谷の生まれた頃、山田家は貧困で、農業と製油業とを営んで生計を立てていた。両親は長子の方谷(通称安五郎)に山田家再興の悲願を託し、5歳の時に隣藩の新見藩(関氏1万2千石)の藩儒丸川松穏のもとに学問に出した。両親が病没する15歳の時までの約10年間、丸川塾で薫陶を受け続けるが、9歳の時にある客の質問に答えて、「治国平天下」と言って驚かせたという。
 士分になり藩政改革に着手
両親没後、方谷は家業を継いで苦労しながら勉強した。その勤勉がやがて藩侯に聞こえて、次第に取り立てられることになり、京都の寺島白鹿塾、江戸の佐藤一斉塾に学んで、32歳で帰藩して藩学有終館の学頭を命ぜられた。やがて板倉勝静にその才学を認められ、嘉永2年、方谷45歳の時に藩の元締(会計長官)と吟味役(元締の副)とを兼務することになり、これから方谷の藩の財政改革が始まった。
その後、郡奉行を兼ねて民政の刷新にも尽力した。藩主勝静が寺社奉行から幕府老中になったのは、方谷の藩政改革の成功が影の力でもあった。
方谷は、農家から立身して士分になったが、武士階級になったとは自任していなかった。方谷はその両親から受けた家庭教育を含めて、32歳までの30年間ほどの勉学により、儒教の精髄を身につけた。そして自らは「文人」をもって自任した。また、藩の要職に就任しても、「官となった」と自ら言っている。「文人」であり「官人」であるという意識は、儒教思想に由来があるであろう。
 儒学の思想
方谷が身につけた儒学の意識は、継之助が抱いていた世臣としての長岡藩武士という意識とは、かなり相違する。「百姓」であった方谷、「武士」継之助、この対照は興味を引く。その継之助が方谷に敬慕の情を寄せたのである。継之助の胸中には、武士と百姓と、そのような区別の意識はなかったであろう。それは陽明学を学ぶことによって得たことかもしれない。方谷も継之助も陽明学の信奉者であるが、陽明学は万人が良知(天与の霊知)を持っていることを認め、その点において万人は元来等しいとする。方谷と継之助と、この二人の間に師弟の枠を超えた心情が交流するのは、それぞれの闊達な人柄にもよるであろうが、或いは互いに陽明学の信奉者であるということで、無言のうちに許し合うところがあったかもしれない。



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