継之助の勉学
 ~義を明らかにして~
 


 陽明学しか学ばなかったのか?
河井継之助の揮毫に、「一忍以て百勇を支うべく、一静以て百動制すべし」というのがある。中国宋の時代の詩人蘇老の作「一忍以て百憂を支うべく、云々」の改作であるというが、実は蘇洵の「審勢審敵」の一節であったという。兵法からすれば、まさに継之助はあらゆる文献を勉学していたことになる。
長岡藩士に鵜殿団次郎という俊傑がいたが、継之助は彼と読書論をした話が伝わっている。継之助が良書の精読を主張したのに対し、鵜殿は万巻の書を読む、博学を目標にしたという。団次郎は悪書も良書も乱読し、その機敏を知るのが人間だというのである。それに対し継之助は「人は理念を必要とし、そのために書物を読むのだ」と主張した。
これによると、継之助の生涯は、そうたくさん書物を読まず、陽明学に関するものばかりであったとしてきた。確かに、彼の旅日記「塵壺」の巻末に「陽明文録十冊二十巻」「標註伝習録付録合せて四冊」「四名公語録」等が記されてあり、陽明学関係の書物を読んでいる。
また、戦後河井家にしばらく所蔵されていたという彼の手写本「王陽明全集」の「王陽明全集抜粋」「王陽明文枠版本四冊」などもあったから、継之助は全集からの効用を受けていたのである。旧長岡藩士の立花逸造の話によれば「陸宣王の奏議」等も筆写していたという。また、江戸遊学先の久敬舎で写した「李忠定公集十一巻」もあったから、継之助の陽明学の知識は相当な水準に達していたといってもよい。
 他分野の書籍にも堪能
しかし、最近発見された「大日本史」の写本などから見ると、歴史、仏教書などの書物にも継之助が親しんでいたことがわかってきた。特に兵法の類は、彼が最も得意としたものだった。兵法書は武士のたしなみでもあったし、後年の戦略、戦術眼を養うものであった。
継之助の署である「一忍以て」は、領内蒲原の国上村の土屋準助の請いにより揮毫したとある。土屋がどういう人物なのかは不明だが、継之助の心境が、藩指導者としての苦悩を持つ立場にあったのだと思う。もとより、継之助が陽明学の良い所を知ったのは、他の学問を学んでこそ、陽明学の良さを理解できたのだと考えられる。
 読書で己を鍛錬する
昭和の初めころ、長岡市においては「河合継之助愛譚文抄」が流布された。河井継之助の直筆の手写本を活版印刷したものである。
それをみると、第一に李綱文抄が冒頭に出てくる。李忠定公集のことである。その第一に「臣、素より愚直、平日惟うに読書に知る」とあり、政治を補う士太夫の心がけを学ぼうという継之助の姿勢がうかがわれる。
また、山田方谷の「論理財」上下と「稼税」が載っている。理財論は継之助33歳の時、備中松山藩の山田方谷を訪ねた際に、山田から教えてもらったものであろうが、彼の学識は、読書という日ごろの鍛錬にあった。
山田方谷の理財論は、「理財は即ち改革だ」と述べており、それには仁の精神が根っこにあり、自藩のみ救おうというものではなく、国家民衆に愛情を以て政事を行おうとすることが肝要だと述べているのである。
「義を明らかにして、其の利を計らず、ただ綱紀を整え、政令を明らかにするのみ」という理財論の基本綱領に、継之助は強い関心を示したといえる。




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