山田方谷との出会い
 ~方谷に学ぶ~
 


河井継之助が江戸から長岡の父親に宛て、山田方谷に師事することの許可を願った手紙がある。安政6年4月24日付であるが、次のような内容である。

当22日、御用にてまかり出で候ところ、願のとおり備中松山候板倉周防守様(板倉勝静)御家来山田安五郎(方谷)へ遊学仰せつけられ、ありがたく存じ奉り候。
当地(江戸)はさすがに大都会、大学者も多く、実に私輩の未熟、師範にいたすべき者はいくらも御座候えども、とかく学問を職業のようにいたし候者多く、才徳を兼ね候実学の人少なきように存ぜられ候ところ、第一思望つかまり山田安五郎、当三月江戸へまかり出で候よし承り、楽しみに存じ奉り候ところ、板倉候、水戸吟味一条にて、寺社奉行御免と相成り、それがため当人も出府つかまつらず、残念に存じ奉り候。
右安五郎と申す者は、本来は百姓にて、ただ今は登用せされ、政事に預かり、国中神の如く伏し候よし、その事業実に感心つかまつり候。すでにこの頃も諸国遊歴人に承り候に、政事の万事行き届き候は、備中松山候と相馬候(奥州中村藩6万石)と承り、私も千年より高野虎太殿、一斉塾(佐藤一斉の塾 方谷も従学した)にて同門いたされ、その節、安五郎塾長いたし、いわゆる佐久間象山をはじめ数人の上に立ち、衆人を服し候は安五郎のみ、高野の信仰話承り、その後登用され、君公への仕え方、事業に施し候次第、追々承知、いかにも慕わしく存じ承り、修行中に何卒一度はかの地へ立ち越し候て、しばらくも従学つかまつらんと思い込み、云々。

方谷に対する敬慕の情を述べているのがわかる。
継之助が方谷に寄せた期待は、その実学、つまり実学の学問であった。そして方谷が「登用せされ政事に預かり、国中神の如く伏し」「いかにも慕わしく」思われた継之助の心情がその文面から読み取れる。




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