継之助の勉学
 ~遊学と雌伏~
 


 江戸遊学
嘉永2年(1849)春、継之助は梛野すがと結婚した。嘉永3年だったとする説もあるが、閏4月1日に祝宴があった事がわかっている。そのすがに、「江戸は山一つ、川一つ、越えれば」と言い残し、すたすたと江戸遊学に旅立ったのは第1回の遊学であった。
再度の遊学は安政5年(1858)12月。宮路騒動を解決し、藩庁の許しをもらうとその日のうちに旅立ったとある。彼の旅日記によれば12月27日。「河井継之助傅」の説に従えば12月28日である。
越後の冬は厳しく、もう積雪もあったころだ。妻のすがにどう言い残したかは知らないが、信濃川を遡行し、越後川口から中魚沼郡十日町か津南まで舟で行き、信州飯山を通り、碓氷峠を超えて江戸に入ったというのが定説である。
1月6日には江戸愛宕下の長岡藩中屋敷に入った。随分と早い上府の旅だった。
継之助はこの度の遊学に際し、両親に無心して15両の遊学費を懐に入れていた。継之助の両親は継之助には全く甘く、息子可愛さに15両もの大金を持たせている。これは、安政2年(1855)春、同じ長岡藩士の鵜殿団次郎が懐中にしていた旅費が一分二朱であったことに比べるとえらい違いである。
 長岡を脱したかった継之助
到着後早速継之助は、藩邸内の長屋から久敬舎の古賀謹一郎のところへ通い出した。その時塾長の古賀は幕府の蕃書調所の頭取をしていて、太宗立派な人物となっていた。主君牧野忠雅が推薦した古賀謹一郎が外交通となっていて、幕閣の諮問に応える形で江戸城に登城するのを継之助は見送った。市井の儒学者が迎えの駕籠に乗って登城する様を、継之助の眼にはどう映ったのであろうか。
そもそも、継之助が故郷から逃れたいと思ったのは雌伏時代にあった。安政2年には藩政の中心にいた人物の弾劾告発文を提出。その年、婿嗣子忠恭の初入部にあたって「御聴覧」の栄誉を得たにもかかわらず「己は講釈などをするとて、学問したのではない。講釈をさせる必要があるなら、講釈師に頼むがよい」と断っている。それがために「御叱り」を蒙った。
その御叱りについて、継之助はどのように罰を受けるのかを藩庁に伺っている。「門口にスを張るのか」などと、人を食ったような質問をし、藩庁を挑発しているところが面白い。
 鈴木虎太郎との出会い
継之助が上府して、一人の若者に出会った。当時16歳の鈴木虎太郎である。後に刈谷無穏と改称し、禅僧となる虎太郎は、継之助の奇怪な言動に翻弄され、自らの運命を変えてしまう人物だ。
その刈谷は後年「河井継之助傅」の著者の求めに応じ、久敬舎時代の継之助の逸話を紹介している。言動はおおむね奇想天外だが、突き詰めて考えれば理に適っている。
「そのころ、漢学者の塾というものは、詩を作り、文章を書くだけのことで、詩と文さえできれば、それで立派に学者といわれたものである。それを詩文では軽重されないといわれたので、自分も疑いが生じてきた。妙な事を言う人だと思っておりました。」
塾で課題が出た。作詩をせよという。そこで継之助は焼芋を十六文ばかり奢るから、虎太郎に代わりに作れと頼んだ。虎太郎が断ると、詩や文章が上手であろうが下手であろうが、学問を学ぶには何人の軽重もないと継之助が言ったという。
これに鈴木虎太郎が、己の人生は栄達のみを求めて学問を志したのかと疑問を持った。




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