継之助の勉学 ~最初の江戸遊学~ |
すがは長岡藩士梛野嘉兵衛(禄高二百五十石)の妹。河合代右衛門家の禄高の倍。梛野家は代々藩主の御側に仕える御用人を務める家柄。長岡藩内では上士の類に属する。梛野家と河合家では家格が釣り合わない。だが、梛野すがは河井継之助と婚姻をした。おそらく誰かの仲介によって、将来見どころのある男だと判断しての縁組であったかもしれない。 しかし、継之助はとんでもない考え方や行動をする人物だった。祈願所の玉蔵院通いや鉄砲を持って山野を跋渉するなど、およそ世間的な武士の行儀ではなかった。泰平の武士は、大過なく1日1日を過ごすものであったが、継之助の激情は、ややもすると藩士の範疇を超えるものがあった。
嘉永3年(1850)、継之助と同じ町内に住む、1歳8か月年下の小林虎三郎が藩命によって江戸留学し、萩原緑野の白鶴塾に入った。虎三郎の選抜は、学業優秀、行跡優良のゆえを持つ妥当なものであったが、継之助にとっては内心穏やかではなかった。虎三郎は翌4年には佐久間象山の塾へ移っている。 また、川島億次郎は牧野忠雅の正室鏡心院の小姓として江戸へ赴き、業務の傍ら古賀謹一郎の久敬舎と佐久間象山塾に学んでいる。継之助は、矢も楯もたまらず、藩庁に私費の留学願を提出し、許可を受けた。嘉永5年(1852)継之助26歳の時である。
それに継之助の最初の遊学時期については、嘉永6年説もある。しかし、嘉永5年に佐久間象山塾の門人帳に河井継之助の名がある事から、今は嘉永5年説が有力である。また、古賀謹一郎の日記「謹堂日誌ビョウ之一」によれば、嘉永5年8月に「川島説次郎同藩河井継之助携来、拙堂紹介を頼む」という記事がある。 脱藩、出奔は家臣の改易、家名断絶などの重い処分が待っていた。そういうリスクを背負ってでも、合法的に江戸遊学を果たすには、父代右衛門が息子の夢に同情的であったためだろう。そのとき、勘定頭という地位よりも、宗偏流の茶の師範の方が役立ったのではないか。茶会は身分を超える空間があった。 のちに河井継之助の股肱となる上士出身の三間市之進・花輪求馬・萩原要人等の屋敷に出入りし、その父親と交友を図り、息子の為に便宜を図ったというのも面白い仮説だと思う。 |