継之助の勉学
 ~最初の江戸遊学~
 


 妻をめとる
継之助が妻のすがをめとったのは、嘉永3年(1850)23歳の時であった。すがは当時16歳、後年「寿賀」「スガ」と署名することがあった。
すがは長岡藩士梛野嘉兵衛(禄高二百五十石)の妹。河合代右衛門家の禄高の倍。梛野家は代々藩主の御側に仕える御用人を務める家柄。長岡藩内では上士の類に属する。梛野家と河合家では家格が釣り合わない。だが、梛野すがは河井継之助と婚姻をした。おそらく誰かの仲介によって、将来見どころのある男だと判断しての縁組であったかもしれない。
しかし、継之助はとんでもない考え方や行動をする人物だった。祈願所の玉蔵院通いや鉄砲を持って山野を跋渉するなど、およそ世間的な武士の行儀ではなかった。泰平の武士は、大過なく1日1日を過ごすものであったが、継之助の激情は、ややもすると藩士の範疇を超えるものがあった。
 長岡藩の江戸遊学制度
長岡藩では天保2年(1831)より、俊才の子弟を江戸遊学させる制度を始めている。最初に選ばれたのは高野虎太(松陰)、山田愛之助、木村誠太郎である。以来、藩校崇徳館では、江戸遊学を果たすために、生徒、学生はしのぎを削って研鑽に努めた。
嘉永3年(1850)、継之助と同じ町内に住む、1歳8か月年下の小林虎三郎が藩命によって江戸留学し、萩原緑野の白鶴塾に入った。虎三郎の選抜は、学業優秀、行跡優良のゆえを持つ妥当なものであったが、継之助にとっては内心穏やかではなかった。虎三郎は翌4年には佐久間象山の塾へ移っている。
また、川島億次郎は牧野忠雅の正室鏡心院の小姓として江戸へ赴き、業務の傍ら古賀謹一郎の久敬舎と佐久間象山塾に学んでいる。継之助は、矢も楯もたまらず、藩庁に私費の留学願を提出し、許可を受けた。嘉永5年(1852)継之助26歳の時である。
 遊学が許可される
間もなく許可が下りたようであるが、ここでも不可解なことが起こった。長岡藩は藩士などが遊学をする際、脱藩を防ぐ目的で妻を人質の形で確保しておく例があった。そうすると、妻のすがは長岡藩の人質となる。また医学などの技術修業には寛容だったが、継之助のような陽明学者の斎藤節堂のところで学びたいものには厳しいはずだった。
それに継之助の最初の遊学時期については、嘉永6年説もある。しかし、嘉永5年に佐久間象山塾の門人帳に河井継之助の名がある事から、今は嘉永5年説が有力である。また、古賀謹一郎の日記「謹堂日誌ビョウ之一」によれば、嘉永5年8月に「川島説次郎同藩河井継之助携来、拙堂紹介を頼む」という記事がある。
脱藩、出奔は家臣の改易、家名断絶などの重い処分が待っていた。そういうリスクを背負ってでも、合法的に江戸遊学を果たすには、父代右衛門が息子の夢に同情的であったためだろう。そのとき、勘定頭という地位よりも、宗偏流の茶の師範の方が役立ったのではないか。茶会は身分を超える空間があった。
のちに河井継之助の股肱となる上士出身の三間市之進・花輪求馬・萩原要人等の屋敷に出入りし、その父親と交友を図り、息子の為に便宜を図ったというのも面白い仮説だと思う。




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