継之助の勉学
 ~継之助の建言~
 


 牧野忠雅に認められる
継之助の建言(意見)書が、主君牧野忠雅の眼に留まった。「意見は過激だが、将来、時局が困難に陥った際に登用すべき人材だ」として評価したのである。そして、目付格評定方随役を命じ、新知30石の石高を付与した。
後年、継之助は「流石は常信院様(忠雅)なり」と厚遇に感激することが多かったというから、忠雅の人物を見抜く眼が聡かったとみるべきだろう。
「河井継之助傅」は「(忠雅を)日本としても、最も外国の事情に通ぜるものの一人たり」とし「対外問題について、当時よりすでに適確の信念」を持ち合わせていたと述べているから、継之助の献言はむしろ、忠雅の内心を衝いたものであったに違いない。もしも乱世が現出したら、継之助のような風雲児の方が、越後の小藩を救うのではないかと抜擢したと思われるのである。
 藩重役との相克
この抜擢は異例のものであった。継之助は国許の評定所に出頭すべく、江戸から帰郷している。そのころ、長岡藩政を一手に担っていたのが城代家老山本勘右衛門だった。
長岡藩は城内に評定所を持っていた。主だった家臣が定期的に集まって、藩政について評定するのである。評定方はそんな重臣たちを言い、家老五家、中老三家、奉行七家と町奉行、郡奉行、宗門奉行をもって評定方を構成していた。そこに随役という名目で、軽輩の継之助が評定に加わるという、今まで全くの前例がなかった決定であったので、藩内外に混乱が生じた。
時に国元を守る筆頭の家老山本勘右衛門は、名代の硬骨漢。大目付の三間安右衛門とともに、継之助の就職を拒んだ。封建時代の主君の特命使が思うように動けないというのもおかしな話だが、随役だったからだろう。忠雅は継之助を抜擢はしたものの、あくまでも補助的な役割に限定した。
山本らは主君から「そのようなことをうかがっていない」と突っぱねたというから、組織を守る責任者としては「最高位でも勘定頭、郡奉行程度の家柄の息子が、藩政に与するなどもってのほか」と判断した。
長岡藩には「侍の恥辱十七箇条」が守られていた。そのなかに「百姓に似るとも、町人に似るな」という教えがあった。金銭を扱う勘定所の役人はそれだけ評価が低かった。そのことを察知した継之助は、評定所に出任する意欲を失った。
 心身を鍛える
それ以来、継之助は山野を跋渉して、心身を鍛えた。継之助は十匁銃を片手に、奇抜な装いで、領内を巡ったという。
長岡藩領の村々には、今でも河井継之助が訪問してきたという話が伝わっている。寺泊の野積や小国、栃尾等の比較的城下から離れた場所が多い。それは藩政改革時代の郡奉行の頃とも考えられるが、その多くは雌伏の時代からの所業によるものであっただろう。
雌伏の時代、「本を読み、または猟に出るとか、特に射的はよほど好きで鉄砲上手であった」と「河井継之助傅」にある。晴れれば猟に出て、雨が降れば読書をする。そんな生活の中で、己を鍛えたという。
鉄砲の技は三十間(約60ⅿ)の距離にある五寸(約15センチ)の的に、ほとんど命中したという。
「武士の家を弓馬の家というが、今後は改めて砲艦の家と言ったほうがよかろう」とは、後に長岡藩兵の兵制改革を断行し、銃隊構想の萌芽につながるものであった。




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