継之助の勉学 ~輔国の志~ |
質問生は、今までの素読生と違って、専科生のようなもので、古義学、朱子学などの学統の教授の下で研鑽を積む学生を言う。 当時の藩校の都講(校長)は高野松陰であった。松陰は天保7年(1836)に帰郷し、都講の職に就いた。それから5年後、継之助は松陰から直接指導を受け、松陰の知るところの陽明学を学ぶことになる。 松陰は「孜々として成材造士」に務めたという。藩士子弟に佐藤一斉から学んだ知識を惜しみなく教授した。その感化を受ける者は多く、河井継之助、小林虎三郎、鵜殿団次郎といった俊才が幕末に世に出ることになる。
三方領地替は、老中水野忠邦の裁可によって、長岡藩を川越に、川越藩を庄内に、庄内藩を長岡へ移封させるというものであった。そのため、長岡藩領内では永年の利害を清算するために、無駄な費用が多く費やされた。移封準備のために藩内は大混乱に陥ったのである。幸い沙汰止み(中止)となったが、そのための犠牲は計り知れないものがあった。 新潟上知は、藩創設以来のドル箱を失うこととなった。従来、新潟浜村の六百余石は小さな知行地でしかなかったが、新潟湊からあがる沖金(すあいきん)などの藩収入は年間2万両を越えるものがあった。当時、長岡藩が使う参勤交代費用・江戸賄い。藩内土木事業、長岡城中牧野家賄いなどの総費用は5万両程度であったから、新潟町からの収入は大いに藩財政の助けとなっていた。継之助の父右衛門も新潟町奉行に就いており、新潟町の重要性をよく知っていた。その新潟町には抜荷事件(密輸貿易)が跡を絶たなかったが、その不始末を理由に新潟上知が断行されたのである。長岡藩にとって多大な損失であった。
その陽明学を学んだ継之助は17歳の天保14年(1843)に、鶏を割いて陽明を祀り、立志を誓ったという。立志とは己を社会のために使う。すなわち政治の道を志したというのである。鶏を割いたのが事実ならば、士としての古礼を踏んだことになる。 古来、儒学には周礼があって、志を立てる際、動物を生贄にする。しかも、身分に応じて六等に分け、牛、馬、羊、豚、犬、鶏を犠牲とするのである。天子は牛馬、諸侯は羊、豚、犬を身分の高低ではかって選んだという。鶏は最も低く、士大夫以下の官僚が使うものであった。そうすると継之助は、その分を守って士の礼を用いたことになる。 継之助29歳の漢詩に、「十七天に誓って輔国に擬す」とあるが、輔国とは長岡藩政に関与し、藩を立て直すという悲壮な決意を、継之助がたてたことであった。 彼の元服は15歳の時であるが、以来2年間、藩内外の状況を鑑みて、決然と立志の誓いをしたところが面白い。 |