山田方谷との出会い
 ~方谷との語らいへ~
 


 方谷、象山を酷評する
さて、「塵壺」には初対面の様子を書き止めて、最後に四箇条書で付記してある。これは、その日に方谷が継之助に語った事柄である。初対面の日から、随分いろいろな事を語ったものである。方谷の話好きで、気取らない人柄がわかる。方谷は何事にも怒声を張り上げることはなく、訥々と諭すように相手に話したということが伝えられている。
四箇条の事柄は次の通りである。まず第一条は佐久間象山の人物評。「温良恭倹譲」というのは、論語の学而篇のことばである
。子貢という弟子が孔子の人柄を述べて、温(おだやか)・良(すなお)・恭(うやうやしい)・倹(つづまやか)・譲(けんそん)であると言ったことがある。この一つの徳の一つも象山にはないと、方谷が語ったのである。継之助は江戸で象山に学んだことがあるから、話が象山の事に及んだのであろう。
方谷は江戸遊学中に、佐藤一斉塾で象山と同門であった。年齢は方谷の方が6歳年長である。その頃のこととして次の話がある。山田準編著の「山田方谷先生年譜」の天保6年の条に、方谷が象山と論争したことが記されていて、激論が繰り広げられたようである。論点は政治のことであったようだ。象山は万事西洋流儀であるが、方谷は政経の事は儒教に備わっていると主張する。一斉は隣室で二人の論議を聞いていた。塾生たちはうるさがり、一斉に抑止せんことを願うと、一斉は笑って「まあほおっておけ」と言ったという。この話は面白すぎるようであるが、前の方谷の象山評は、実際にこのようなことがあっての上であろう。
だが方谷は、西洋の技術を退けるようなことはなかった。むしろそれを積極的に摂取した。自ら砲術を習い、銃陣を研究したことによってもそのことがわかる。ただ象山の万事派手好みと、方谷の険素と、二人の性向に違いがあったのであろう。
 農民から登用された方谷
第二条の「封建の世云々」は、方谷が自分の立場を語ったものである。封建の世は、藩政の頂点に藩主がおり、その下に数人の家老、年寄役がいて最高の執政官である。この家老職は原則として世襲であり、門閥世臣として権力を有する。その下にまた多くの役職があり、藩政組織をピラミッド型に形作る。身分制の厳しい封建の世では、この組織を崩すことはできない。幕末期に諸藩で人材を登用したが、家老職までの登用はまずない。方谷は農家からの登用である。方谷は21歳の時、その篤学の故を以て藩主から二人扶持を給せられ、次の沙汰書を賜った。
農商の身にて文学に心がけよろいしき旨を聞き、神妙のことにつき、二人扶持をくださる。これより、おりおりは学問所へ出頭し、なおこの上とも修業し、ご用に立つよう申し付ける
25歳の時に苗字帯刀が許され、八人扶持を給せられ、藩校有終館の会頭を命ぜられた。これが禄仕の始めである。32歳で「文学格段出精致候に付、大小性格に・・し、講釈の説、肩衣を免す」との命を受け、有終館学頭を命ぜられ、邸宅を城下に賜わった。
このように方谷はまず学職に登用され、45歳で藩の元締(会計長官)と吟味役(元締の副職)の兼務を命ぜられた。これから藩財政の実権を執ることになり、藩の財政と民政との改革へ、その第一歩を踏み出したのである。封建の世には異例の登用であり、それだけにまた門閥世臣の嫉妬を受けることもあった。しかし藩主板倉勝静の絶大なる信任を得ていたし、方谷はまた剛毅な気象を抱いていたので、藩主の信任にこたえて、存分に経綸の才能を発揮した。藩主勝静は寺社奉行から老中に出世すると、藩政の一切を方谷に任せた。そこで自分は江戸に在って幕政に専念することができたのである。
しかし、身分は藩の執政ではない。やがて安政3年52歳の時に年寄役になったが、封建の世の身分制の壁は厚く、それ以上の出世はなかった。しかし藩主から任された藩政の責務は上級家老に等しい。あるいはそれ以上の重要さを持っていた。それに伴う方谷の心労はまた多かったであろう。「封建の世、人に使われる事出来ざるは云々」と方谷が言ったのは、方谷の自負があったであろうが、また方谷の心労が表現されている言葉でもあり、実感がこもっている。
このような方谷に比べると、継之助の立場は異なる。河井家は長岡藩の家老の家柄であり、父の代右衛門が隠居したので、継之助は32歳で家督を継いだ。方谷を長瀬に尋ねて来た時は33歳であり、既に家老であった。しかし継之助は方谷の立場をよく理解していた。父親宛の手紙に「その後登用せられ、君公への仕え方、事業に施し候次第、追々承知、いかにも慕わしく存じ奉り、云々」と言っていた言葉の中に、そのことが伺われる。「封建の世云々」と方谷が言ったのは、内容的には継之助が「君公への仕え方」と言っていることに当たる。
 方谷が書き残したかったこと
第三条の「一村に一丁ずつ云々」は、方谷の富強策の一環である。前に述べた「塵壺」の「道々、新開の所も諸処に見ゆ」とは、その方策が実施されたことによる。
第四条の「公の水戸一条云々」は、戊午の勅諚に関連する。安政5年(戊午の年)井伊大老の政策に反対する人たちが、大老のなした外国との通商条約締結と将軍継嗣策に不満で、水戸藩に勅諚を下すという事件があった。このことから井伊大老による反対派の弾圧が始まり、いわゆる安政の大獄が起こる。当時寺社奉行であった板倉勝静は、反対派の処刑は一、二の巨頭にとどめ、他は不問にしたがよいことを建言した。これが大老の怒りに触れて、勝静は寺社奉行を罷免された。このことは備中松山藩に衝撃を与え、方谷は勝静の補佐の任に当たる身として心を痛めた。実は大獄がまだ起こらない以前に、勝静は方谷に扮議を鎮める方策を下問していたのである。勝静は方谷の進言を用いるところがあったが、結果は寺社奉行の罷免となった。方谷は勝静が職を賭しての大老への権限は、公儀に基づくものであると称揚し、勝静が方谷に賜うたところのこの事件に関する手紙の後に、自分の意見を書き記して証言として後世に残そうとした。方谷は、この罷免事件が誤伝されて、人の誹議を招くことを恐れたのである。
さて、継之助が内々に見せてもらった文とは、方谷が書き残して証言として後世に残そうとした文のことである。方谷は、この文は幕府の大議にかかる事なので、秘して公示しなかったのであるが、継之助には内々で見せたのは、継之助を信頼したのであろうか。或は継之助には知っておいてもらいたかったのかもしれない。方谷の苦心のほどがわかる。ところが時運の進展は激しく、井伊大老は間もなく桜田門外で暗殺され、勝静は復職して老中になるから、方谷の苦心は必要が無かったとも言える。それはともかく、戊午の勅諚、安政の大獄と言われる幕末の政治史上の重大事件を、継之助はこの山深い所で見に近いこととして聞いたのである。



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