長岡藩の軍制と装備 ~高島流砲術~ |
これには秋帆が父四郎兵衛から学んだ荻野流増補新術が、周発台と呼ばれる自由砲架をもった大砲と十巾玉筒に統一された歩兵を組み合わせた鉄砲戦術論であったことが、ヨーロッパ砲術についての理解を助けたと思われる。 秋帆以前にもヨーロッパの火器に注目した者はいたが、ほとんど世間一般には周知されなかった。当時のヨーロッパ軍隊の制式銃の礎石銃などが、初速や装填速度が速く、かつ安全だったとしても、命中精度が劣るといった一事をもって西洋砲術恐るるに足りずとした。それは、天保12年(1841)武州徳丸原で行われた高島流砲術の演練に際して、幕府銃砲方の田付・井上両家からは、空砲であるから射撃の成績がわからないと批判されたように、命中があらゆることに優先するといった技術優位の考え方が専門家の間にあって、個人的武勇を称揚する中世の戦法は依然として根強く残っていた。
たまたま天保11年(1840)オランダ船がもたらした情報によって、清がイギリスに敗れ、屈辱的な条約を結ばされたことを知ることができた。これによって秋帆が我が国の兵制を洋式に改革すべしとの意見書を幕府に提出したことから、翌天保12年(1841)5月9日、荒川沿岸の徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)において、わが国最初の洋式兵学の公開演練をすることになった。 その日、徳丸原には、監察使・幕府高官、及び諸侯をはじめ諸藩士・庶民等見物人が大勢集まり、モルチールやホウィツルによる榴弾・榴散弾の発射や、二中隊編成による歩兵の陣形変換ならびに一斉射撃が滞りなく行われ、見る人たちに深い感銘を与えた。 秋帆は江戸滞在中、幕命によって江川英龍、下曽根金三郎の二者に高島流砲術を伝授した。後にこの門に学ぶ者は佐久間象山、川路聖謨、大槻磐渓など四千余人に及び、西洋兵学は順調に発展していくかに見えた。 しかし、当時の大目付であった鳥居耀蔵は、儒家林家の出身であったことから蘭学を嫌い、西洋兵学が持て囃されるのを苦々しく思い、これを弾圧せんとして疑獄事件を起こした。 徳丸原演練によって面目を施し、意気揚々として長崎に戻った秋帆は、天保13年(1842)10月2日着任した長崎奉行伊沢美作守によって、武器・弾薬を用意し、幕府に対して叛乱を企てたとの理由で検挙され、取り調べのために江戸へ護送された。この取り調べは残忍酷薄を極めたところから非難の声が上がり、鳥居は町奉行を失脚し、再吟味の結果秋帆は中追放に処せられ、安中藩にお預けとなった。
弘化3年(1846)8月には、海防を厳しくするよう布告され、沿海諸侯はそれぞれ砲台を構築し、軍備の強化を図るようになったが、これらには秋帆によって開かれた西洋流が基になって実施されたものが多い。 もともと幕府の諸藩軍制に対する政策は、質的弱体化を目的としたものであり、幕府自体の軍備はそれと相対的なものであるから、諸侯の軍備の弱体化は同時に幕府の軍事力低下につながるものであった。これに対して一大痛撃を与えたのが嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航である。 これまで幕府は、軍役その他の役務には諸藩を使役することによって財力の蓄積を防ぎ、幕府の力を温存するという方針であったが、弘化年間以降は諸侯に巨砲大艦を建造させ、軍備の充実を矢継ぎ早に司令してきたことから、軍備における幕府の優位性が相対的に崩れ出し、かつ諸藩が幕府の指示で軍備を充実させることから多額の資金を貸与するということで、財政的にも幕府の地位は低下するようになった。 結果、第一次長州征伐(元治元年1864)ではかろうじて面目を保つことができたが、慶応2年(1866)の第二次長州征伐では、下関戦争の結果によって急速に洋式化を進めた長州に対して勝算が無いことが暴露され、幕府の威信は地に落ち、薩長を軸とした倒幕の気運が盛り上がってしまった。 西南雄藩の軍事力強化に驚いた幕府は、フランス公使レオン・ロッシュの進言によって、軍制をフランス式に改革しようとするが、最早大勢を挽回することはできず、瓦解の道を歩むことになった。幕府ですら時運に対処できず、軍制の改革に乗り出したのが慶応3年(1867)では、幕府を範に取ってきた譜代の小藩が立ち遅れたのは無理もない。譜代の7万石の小藩長岡も例外ではなかった。 |