長岡藩の軍制と装備 ~改革断行~ |
しかし継之助は屈せず兵制の改革に取り組み、帰国後、殿町にあった藩主の隠居所を城中に移して之を兵学所とし、高橋小路にあった威遠流操練所をここに移転させ、城西中島の操練所と共に洋式調練の場所とした。 慶応3年(1867)、幕府はフランス式の兵制を採用することになり、2月に陸軍少佐シャノワンの来日があって三兵の調練が始まったことから、譜代大名である長岡藩もフランス式に範をとることにし、中島の操練所を拡張して練兵場並びに射撃場を設けた。この射撃場は射座を段階に作り、一小隊が一斉射撃を行う規模で、それまでのように一つの射座で兵士が交互に射撃をしていたことから見ると、実に大きな進歩であった。
一、西洋兵制は、各国戦うごとに工夫を凝らし、大小縦隊、分合集散、隊伍の働きは勿論、諸器械は実地に付て得失研究、その製造日に新になりゆき、近来御国内一般、西洋兵学の所長を採りて兵制改革の体は衆人の見る所に候。今般御家に於いても古来の御定御軍制御棄損、惣隊縦隊に御組立、追々御変革仰出され候間、当今至当の御所置厚く相心得、練磨忠勤致さざるべく候。 一、軍役御定の品々容易に及ばず候事。 一、槍・長刀稽古御廃止仰出され、これ迄鍛錬の者にても縦隊に御組立、事に臨み御採用遊ばさるべく候間、当時格別出精上達の者は、御人選の上、一隊に御組立なされ候事。 一、そぎ袖羽織・細袴の類・衣服の御出仰出され候間、無益の入費相省き用意致さざるべき事。但し、地合・色合・紋所・御相印等、先達て相達し候通り相心得申すべし。着時調達相なりかね候面々、野羽織・伊賀袴の類相用いて苦しからず候事。 これに加えて、これまでの軍役では家老・足軽・中間とそれぞれの禄高に応じて、諸武具並びに供の数が定められていたが、西洋式では大砲・小銃を用い、甲冑・武具等の差別が無いので、兵士の俸禄も平均すべきであるとなったが、一時にこれを行うのは過激すぎるとのことから、百石を標準として、百名以上の者は逓減に、百石以上の者は逓増とし、陪臣はこれを直参として、持高に応じて士分或いは足軽と言った折衷案が実施された。 これは百人の禄を減らし、千人の禄を増やす事によって士気を高めようとするもので、実行の責任者である継之助は、友人から減知を受けた者たちが怨んでいるから注意せよと忠告されたが、「二度や三度は水溜の中ぐらいは放り込まれるかもしれないが、己を殺すほどの気概のあるやつは一匹もいまい」と一笑に付したという。
また号令によって隊形を転換すると言ったことも初めての経験だったため、隊長も兵士も号令を記憶できず、センスに号令を書き連ねたものの、号令と動作がバラバラで兵士が隊長に次の号令を督促するということもしばしば見られた。 このようなことがあったにせよ、慶応3年3月に兵制改革の方針が決まり、一部の反対があったものの、わずか1年にして32小隊(一小隊は兵士32人、司令・小令・半令等を含めて36名で編成)1152名の兵を訓練し、戊辰戦争では局外中立を貫かんとしたのであるが、如何せん継之助の努力をもってしても、7万石余の小藩では力の限界があった。 |