長岡藩の軍制と装備
 ~改革断行~
 


 藩士たちの抵抗にあう
長長岡藩が本格的に兵制を改正するようになったのは、河井継之助が執政になってからであるが、藩士たちの間で洋式の操練に反対する者が多く、事あるごとに反攻の態度を示し、流石の継之助も手を焼いたと言われる。慶応3年(1867)正月に、渋谷の練兵場まで行進させんとしたところ、当日藩士たちは大きな弁当箱を携えてきたため、兵士が弁当を持ち歩くのもいかがなものかと、各自弁当持ちの小者を連れていきたいと申し出たのを継之助から叱責されたのに腹を立て、腰に縄を巻き付けて弁当のみか蓑合羽の類まで雨の用意と称してこれを背負い、袴を高々と捲り上げて呉服橋より太鼓を叩いて繰り出したので、往来の見物人たちから乞食の操練だと陰口を叩かれた。しかも渋谷へ着くと寒さが厳しいため、勝手に焚火等を始めたことから、遅れて着いた継之助が詰問するや、藩士たちは寒くはないが戦争で火を焚くことも知らぬと言われては恥辱となるから予め稽古をするのだと、反抗の姿勢を露わに見せ継之助を歎かせたという。
しかし継之助は屈せず兵制の改革に取り組み、帰国後、殿町にあった藩主の隠居所を城中に移して之を兵学所とし、高橋小路にあった威遠流操練所をここに移転させ、城西中島の操練所と共に洋式調練の場所とした。
慶応3年(1867)、幕府はフランス式の兵制を採用することになり、2月に陸軍少佐シャノワンの来日があって三兵の調練が始まったことから、譜代大名である長岡藩もフランス式に範をとることにし、中島の操練所を拡張して練兵場並びに射撃場を設けた。この射撃場は射座を段階に作り、一小隊が一斉射撃を行う規模で、それまでのように一つの射座で兵士が交互に射撃をしていたことから見ると、実に大きな進歩であった。
 改革の内容
慶応4年(1868)3月、継之助の進言によって帰藩した藩主忠訓は、用人稲垣主税をして次の如き兵制改革の申し渡しを藩士一同に伝えた。
一、西洋兵制は、各国戦うごとに工夫を凝らし、大小縦隊、分合集散、隊伍の働きは勿論、諸器械は実地に付て得失研究、その製造日に新になりゆき、近来御国内一般、西洋兵学の所長を採りて兵制改革の体は衆人の見る所に候。今般御家に於いても古来の御定御軍制御棄損、惣隊縦隊に御組立、追々御変革仰出され候間、当今至当の御所置厚く相心得、練磨忠勤致さざるべく候。
一、軍役御定の品々容易に及ばず候事。
一、槍・長刀稽古御廃止仰出され、これ迄鍛錬の者にても縦隊に御組立、事に臨み御採用遊ばさるべく候間、当時格別出精上達の者は、御人選の上、一隊に御組立なされ候事。
一、そぎ袖羽織・細袴の類・衣服の御出仰出され候間、無益の入費相省き用意致さざるべき事。但し、地合・色合・紋所・御相印等、先達て相達し候通り相心得申すべし。着時調達相なりかね候面々、野羽織・伊賀袴の類相用いて苦しからず候事。
これに加えて、これまでの軍役では家老・足軽・中間とそれぞれの禄高に応じて、諸武具並びに供の数が定められていたが、西洋式では大砲・小銃を用い、甲冑・武具等の差別が無いので、兵士の俸禄も平均すべきであるとなったが、一時にこれを行うのは過激すぎるとのことから、百石を標準として、百名以上の者は逓減に、百石以上の者は逓増とし、陪臣はこれを直参として、持高に応じて士分或いは足軽と言った折衷案が実施された。
これは百人の禄を減らし、千人の禄を増やす事によって士気を高めようとするもので、実行の責任者である継之助は、友人から減知を受けた者たちが怨んでいるから注意せよと忠告されたが、「二度や三度は水溜の中ぐらいは放り込まれるかもしれないが、己を殺すほどの気概のあるやつは一匹もいまい」と一笑に付したという。
 困難極まる改革
かくして藩中の体制が定まったので若者を八大隊に組織し、先込式の施条ミニエー銃によって訓練を開始したが、減俸問題や洋式採用に反感を持つ者が多く、種々の妨害を加え、行軍中の隊列へ投石する者さえあったといわれ、また自我を押し通さんとする者もあり、一朝に改革することは困難であった。例えば、洋式で用いる小銃は全て銃剣がついていたものであるため、継之助は従来の槍・刀を廃しせんとして、たまたま藩侯の来臨があった機会にこれを申し渡したところ、槍隊や抜刀隊が従わず、刀槍の使用を禁止するならば調練に参加しないと強硬に反対したため、演練を中止するということもあった。
また号令によって隊形を転換すると言ったことも初めての経験だったため、隊長も兵士も号令を記憶できず、センスに号令を書き連ねたものの、号令と動作がバラバラで兵士が隊長に次の号令を督促するということもしばしば見られた。
このようなことがあったにせよ、慶応3年3月に兵制改革の方針が決まり、一部の反対があったものの、わずか1年にして32小隊(一小隊は兵士32人、司令・小令・半令等を含めて36名で編成)1152名の兵を訓練し、戊辰戦争では局外中立を貫かんとしたのであるが、如何せん継之助の努力をもってしても、7万石余の小藩では力の限界があった。




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