長岡藩の軍制と装備 ~鵜殿団次郎の兵制改革案~ |
もともと長岡藩は徳川氏譜代として藩主は幕閣の枢機に参画することが多く、牧野忠雅が老中職にあるときエトロフ事件があり、その子忠精が老中勤役中の天保14年(1843)から安政4年(1857)は、黒船渡来や日米和親条約の締結等、外国との問題に一番頭を悩ませた時代であって、我が国の軍備の貧困さを身をもって感じたことだろうし、内外の情報に最も近い立場にあったが、忠精の跡を受けた忠恭も京都所司代から老中に就任するというように、自藩の改革を顧みる暇がなかった。そのため、文久年間に及んで、藩士由良安兵衛・木村文三らを江戸赤羽橋にあった下曽根信敦の塾に入門させ、続いて森一馬・稲垣才七・森広之丞・九里孫次郎・陶山惣平・植田清五郎らをして、下曽根塾及び縄武館(伊豆韮山の代官江川太郎左衛門の洋兵塾)に学ばせ、彼らの帰国を待って洋式の訓練を教導するようになった。 最初は城下の高橋小路の長屋前に威遠流操練場を設け、森広之丞・由良安兵衛・萩原要人・吉川角兵衛・倉次喜惣次らが教師となって洋式の練兵をしたが、何分始めてのことで戸惑いがあり、わけても我が国の戦闘様式が一騎討といった個人格闘を中心としたことから、自己の得意とする武芸技術の向上が眼目とされ、他者に抜きんでることが目的化されているため、自己犠牲による共同行為といった近代軍隊の要素とは大きな意識の落差があり、三兵戦術にみられるような歩兵・騎兵・砲兵がそれぞれ独立した任務を持ちながら、戦術的には相互密接な関連を保って機能的な戦闘を展開する意義が理解できず、洋式調練を持って足軽訓練と蔑視した上級武士が関心を持たず、西国諸藩のような盛り上がりはなかった。
御軍制御改正に附心得申し上げ この度、御軍制御改正で仰せ出され候上は、唯々ご成功を希望奉り候。さり乍ら前々申上げ奉り候とおり、容易ならざる儀に候間、何分小成に御安じなされず、精錬不敗後に御立ちなられ候まで御勉励これ在りたく存じ奉り候。 一、先達ても申上げ候とおり、ヨーロッパ州は3百年来引き続き戦争仕りおり候こと故、日本にて強国と唱え候薩州も、これが為に僅か両日の間に悉く砲台を打壊され、長州の如きも4日の戦いにて和睦を求め候。誠に以て欧州戦争の精巧は、外人ながらも感服仕り候。然れども欧州の兵術だに学び候えば、日本国中敵なきが如く存知得意に相なり候はば、必ず却て粗暴の衝突に駆り立てられ、敗辱を取り候こと疑い御座なく候。欧人は欧制を以て日本人に勝ち候に、日本にて欧制に倣い候はば、却て無制の兵に敗を取り候こと、これ全く五穀の美なるも熟せざればテイハイにしかずと古人の申し候如くにて、欧制の美なるも、日本にてこれを学び候者に精錬熟者乏しく候故、遂に無制の兵に駆り立てられ候禍ひ出来仕り候儀、款しきことに御座候。これによって、この度御改正なされ候に就いては、これまでの歩兵調練、身体動作の事業を持って御満足なされず、かねても申上げ候とおり、諸士の分は散戦闘を専ら御教練なられ、大小砲とも命中を精密に致し候まで鍛錬仰せつけられ、歩兵・散兵・砲兵、三兵連合の変化は勿論、夜営・哨兵・朝暮の侵襲等不意の変に応ぜられ候て・・・・余裕これあり候処まで御精錬これなく候ては、折角の御改正、無益のものと相成り候間、この処に徹底の御着眼あらせられ候様、専ら存じ奉り候。唯々当時公儀その他御譜代大名中、歩兵調練を僅かにいたし、これを以て欧制と号し、得意に相なり、敵と戦わんと欲し候は、実に却って欧人の一笑を来し候儀にて嘆息の至りに御座候。窃に存じ候には、この度万一長州にて戦争これあり候ても、公儀及び御譜代の大名にて相立てて候兵隊にては必ず勝利これなく候。この時に到り候はば、必ず西洋兵隊は無益なりと申す説出来候て、折角取立来たり候諸家も、或いはこれがまたぞろ見合わせ候様なる儀これ在るべしと存じ奉り候。御家などに於いては、可様の事は決して御座あるまじく候えども、万一世上歌謡の事これあり候ても、これには一向御動揺なされず、イギリス・フランス等の薩長を破り候処を以て強弱精祖をご判断なされ、いよいよ御精勤、欧州戦争の真面目まで御果敢とりなされ、五穀の美を御熟し・・・卓越なされ候不抜の御志に御座なく候ては、御改正御無益と存じ奉り候。 このように、鵜殿の意見は、西洋兵制に改正をするには、不退転の覚悟が必要で、一時の流行を追うのであればむしろ改正は無益だとし、さらに文武の学校を設立して身分に応じた教育を施すべきだとした。またこれまで軍役に就くのは小身に限られ、大身の士は鉄砲や槍等を差出すだけで実際の軍役は逃れていたものを、大身・小身とも身分相応の武術を修練すべきであると述べた。 |