長州軍と北越の戦い
 ~戦闘始まる~
 


 官軍攻撃開始
官軍の主力は東山道軍千五百と海道軍二千五百の二手に分かれて長岡を窺った。いずれも薩長軍主力の部隊である。
5月3日には東山道軍の一部が信濃川右岸の榎峠を占領した。ここは長岡藩領の入り口にあたるところで、長岡城に攻め入るにはここを確保する必要があった。東山道軍全軍が榎峠を抑えなかったのは、小千谷の北北西にあたる片貝付近で会津軍と戦わなければならなかったからである。しかし会津軍を撃退した東山道軍が、守備兵を片貝に残して、いったん小千谷の本営に引き上げたのは、榎峠の守備を軽視したせいであろう。
長岡藩攻撃の作戦は、5月7日、各藩に伝えられた。榎峠を越えて長岡城に攻め込むというものである。
9日、小千谷の本営を出た官軍主力部隊の海道軍と東山道軍は三仏生まで軍を進めた。ここは信濃川左岸である。渡河して右岸にいる東山道軍の一部と合流し、さらに榎峠を占領している同じく東山道軍支援をも併せ、長岡城下に進撃するつもりだった。ところが、降雨のため増水した信濃川が渡れないのである。榎峠を目前に、官軍は両岸に立ち往生してしまった。これを知った長岡軍は、榎峠の奪還を目指し、また榎峠の南に当たる朝日山を確保する他、付近の山に守平を置いて、城下の入り口を固めてしまった。
榎峠を占領している官軍は、尾張藩一小隊と砲二門、上田藩一小隊に過ぎない。河井継之助は、榎峠を攻略して信濃川右岸一帯を制する作戦を立て、榎峠に籠もる官軍を攻め始めた。しかし、榎峠は天然の要害で、心細いながらも官軍の小隊はこれを良く守った。三仏生にいる海道軍も支援の砲撃を開始したので、長岡軍は榎峠を攻めあぐんだが、朝日山の確保など周辺の状況は、官軍にとって不利な方向に固まりつつある。それに榎峠がいつまで持ちこたえられるかの不安もあった。
 官軍、信濃川を渡河する
この日(5月9日)の夕刻になって信濃川の水がわずかに減ったのを見て、奇兵隊五番小隊が尾張藩一小隊とともに、意を決して渡河し、対岸の軍と合流した。これに勢いを得て、11日までには奇兵二番小隊、同四番小隊、長府報国一番、三番小隊、薩摩、尾張藩兵らが渡河を終わった。直ちに榎峠の官軍を助けるべく進撃に移ったが、長岡軍の抵抗が激しく、少しばかり兵を退かねばならなかった。
この頃柏崎にいた参謀の山県狂介が、奇兵隊参謀時山直八とともに小千谷に到着した。戦線を視察した山県は、榎峠の形成を制するためには、猛撃一番、朝日山の高所を抜く必要があるとの結論に達した。時山は信濃川右岸にとどまって攻撃準備の指揮にあたり、山県は小千谷に引き返して、三仏生の奇兵一番小隊を援軍に再び信濃川を渡ってくることにした。
ところが、朝日山を濃霧が覆っているのに目を付けた指揮官の時山は、命令の行き違いがあったりして増援の奇兵隊が遅れたのを待ちかね、5月13日の早暁、総攻撃の命令を出し、自らも先頭に立って朝日山の険しい崖をよじ登った。
朝日山は榎峠の一部といってよく、標高339ⅿの高地で、長岡兵はこの頂上を本陣とする三重の堡塁を築いている。
 山県の悲憤
急速に晴れてゆく霧の中から、最新兵器を手にした長岡藩の精鋭や、また桑名藩の剣豪として知られる立見鑑三郎らが、突然姿を現した。時山は自刃を振りかざして敵中に突進したが、顔面に銃弾を受けて倒れた、即死であった。奇兵隊士は、時山の首だけを切り取って、その場を退却した。逃げる時、味方の遺体を運ぶ代わりに、首だけを持ち帰るという行為を、奇兵隊は各地で見せている。
山県が増援の奇兵隊を連れて駆け付けると、陣営に時山の首が据えられていた。「なぜ待ってくれなかったのだ」と、山県はその首の前で号泣したという。
時山直八は、松下村塾で山県と一緒に学んだ一人である。吉田松陰は「直八の気を愛すべし」と言った。馬関戦争、俗論派との内戦、四境戦争(第二次長州征伐)と歴戦した奇兵隊の勇士時山は、31歳で北越の地に散った。
13日の朝日山攻撃で、長州軍の戦死者は時山直八ら5名、負傷34名。また、側面から攻撃に加わった薩摩軍も戦死5、負傷2を出し、これらを迎え撃った同盟軍の死傷者は9名であった。




TOPページへ BACKします