継之助の勉学
 ~牧野忠精の影響~
 


 名君・九代藩主牧野忠精
天保2年(1831)7月10日、長岡藩九代藩主の牧野忠精が江戸において亡くなった。忠精の業績は、継之助の人生に影響を与えている。忠精が没したとき継之助は5歳でしかなかったが、「龍徳院様(忠精)のおかげで長岡は徳川恩顧の大名となった」と聞かされている。
忠精は明和3年(1766)8月に7歳で九代藩主となった。以来、教育ママの母の指導で文武の武術・芸術に励んだという。
忠精が藩主になってから、藩領では災害が多く発生した。明和4年、洪水、大風、虫害によって損毛高5万8千2百石。同8年2月大風で城内城外、領内民家破損。同9年2月、江戸西荻窪屋敷類焼、安永2年(1773)旱魃によって4万1千5百石の損害。同8年10月洪水で5万8千7百90石の損害。天明元年(1781)2度洪水によって6万5千9百70石の損害というように、壊滅的な被害を多く受けている。その間、忠精は西の丸大手門勤番、内桜田門勤番等に続き、栄達の道を歩んでいる。
天明7年には寺社奉行、寛政4年(1792)には大坂城代、寛政10年(1798)には京都所司代となっている。
忠精の最大の業績は、京都所司代の時に、朝廷と幕府との間の友好関係をよくしたことである。享和元年(1801)7月、忠精は老中職となって、幕閣の中枢に参画した。
 行動派の忠精
長岡藩絶世の名君として称された忠精は、封建君主としては珍しく主体的な考え方、行動する人物だった。それも実践躬行を若いころから心掛け、家臣の本富氏から剣術を習うなど進んで行った。剣術を習うなどの修業は、従来足軽などの軽輩が中心の鍛錬であったから、変わった若君ではあった。そういう奇行は、7歳で牧野家当主となったころからすでに始まっており、家臣の目線に立ったものの考え方ができたといえるだろう。
はじめの治政は必ずしも安泰であったとはいえない。自然災害によって藩財政は逼迫していたし、何代か続いた養子縁組や新参家臣の加増などで、家風も紊乱していた。
忠精の母は、大岡忠光の娘の俊光院であったが、彼女には息子を幕政に就かせようという夢があった。そのために、牧野家譜代の重臣を信頼し重用して忠精を補佐させたのである。
特に、城代家老の任を長く務めていた山本老迂斎を重用した。山本は越後長岡城にあって、藩風の刷新と藩財源の確保を図っていた。まず、藩風の刷新には儒学者高野栄軒、余慶親子を登用して、牧野家の出身地であった三河以来の「常在戦場の精神」の復活を目指した。余慶は軍用諸掌などを編纂するとともに、牧野家とその家臣の由緒をただして、三河武士の原点を振り返るよう藩風の刷新を推進している。原点とは牧野家が譜代大名となった所以を知り、創業の苦心を家臣一同に察しさせることだった。
 君臣一体となって
名臣の支えがあってこそ、名君が生まれる。忠精は幕閣の地位を利用し、とかく藩領の堺で発生する紛争を調停して、新田開発をはかって増収に務めた。新潟湊の整備を進め、蝦夷の物産の移入にも力を注いだ。とりわけ、越後の領内蒲原での三潟干拓事業は、最大の懸案だったが、忠精が老中職に就いたからできるものだった。鎧潟、大潟などの沼地は、新発田、村上両藩領に接しており、三潟の水を抜き、日本海に流す土木技術の難しさと共に、利害関係が絡んだ難事業であった。その事業を完遂することを忠精は目指した。
当時の郡奉行であった河井家三代当主の河合代右衛門秋恒が三潟干拓事業を担当した。その辛労は河井家の名誉と家運を懸けたものであった。
一方で、忠精は化成文化の頂点に位置し、将軍徳川家斉を補佐した。江戸時代はまさに爛熟期に達し、忠精は台命によって、朝廷との応接や紅葉山文庫の管理にあたっている。
忠精は、初代、三代藩主の遠忌の法要を営むとともに、領内の産業奨励を行っている。越後長岡のような辺陬の地にも、文化的な上品な菓子「越乃雪」の製造販売を城下の金物商大和屋庄右衛門に許している。
忠精は生涯、雨龍の絵を描いた。将軍家や知人の大名家に寄贈をしたが、国本の藩領の家臣、庶民にも分け隔てなく頒布している。例えば巡視の際、立ち寄った寺院や、新田開発の功労者であった庄屋層などに分け与えたのである。そのことのみをとっても画期的な事であった。
長岡藩の家臣と領民は、牧野忠精の出現によって、大きな誇りと自信を持った。牧野忠精以来、長岡藩は徳川家恩顧の大名となった。




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