長岡藩の軍制と装備 ~長岡藩の兵器~ |
兵制の改革が慶応3年(1867)という遅れたスタートの中で、肥前や薩摩すら導入しなかったガットリング機関砲を大金を出して求めたのは、薩長を中心とする倒幕軍と佐幕派の東北諸藩の両勢力に挟まれた位置にある小藩が、無事生き残る道として選んだ中立政策を堅持するためではなかったか。 鳥羽伏見の戦いに敗れ前将軍徳川慶喜が江戸へ逃げ帰るや、主戦論か恭順論か大いに揉め、北陸・上越の諸道も騒擾するようになった事から、慶応4年(1868)3月、継之助は江戸藩邸引き払いの責任者として主家の重宝・書画・骨董の類を昵懇の外国商人エドワード・スネルの手を経て横浜に在住する外人に売却し、数万両に替え、これをもっては意気を購入せんとした。また江戸市中は、最大の消費層である大名達が領地に引き上げたことから米価が下落し、両替相場も金が高騰していることに目をつけ、江戸屋敷が備蓄してあった米穀を箱舘に回送して売却するとか、先ほどの金を銭に替え新潟で両替して三割近い差益を得るなど財務家としての手腕も確かなものであったようだ。 これらの金は兵器及び軍資金となるのだが、すでに慶応3年(1867)12月18日には藩士に対して一挺ずつのミニエー銃を貸与することが令せられているから、当時千五百挺程度のミニエー銃が長岡藩にあったとみられるので、予備の小銃を購入したとしても数百挺ですみ、当時ミニエー銃一挺の家格が六両前後というから数百両の出費であり、継之助の手元に残る金ではまだかなりの武器を買う事ができた。 たまたま横浜のファブル・ブラント商会がアメリカからガットリング機関砲三門を輸入したとの情報があり、かねてから同商館に出入りしていた継之助はそのうちの二門を六千両で譲り受け、小銃数百挺、大砲数門とともにスネルの所有する汽船に積み込み、慶応4年3月3日藩士百五十余名を率いて新潟に上陸し、28日に長岡に到着することができた。
開戦に備えた長岡藩の兵力は四大隊で、一大隊は八小隊からなり、一小隊は銃手32人、隊長・伍長等4名の計36人で編成されるから1152名であって、7万石としては標準的な動員数である。 又装備については大砲が約30門あったといわれ、砲種は正確には不明だが、十五寸忽砲・元込砲・フランス忽砲・施条砲の名が記録にある。これらは次のものであると考えられる。 十五寸忽砲…15ドイムホウィツル砲と思われる。青銅製の口径15センチの滑腔砲で、野砲として使用された。 元込砲…二門あったようで、当時元込の砲は佐賀藩がアームストロング砲を有していただけでその他は前装砲であるから、ガットリング砲の事と思われる。 フランス忽砲…6斤のフランスボートと思われる。口径95ミリ、砲身長は17口径長、青銅製野砲である。 施条砲…フランス式四斤野砲と思われる。幕末・明治にかけて最も多く諸藩に採用された施条砲である。構造は青銅製の前装式カノン砲で、口径86ミリ、全長1.39メートル、弾丸は榴弾・榴散弾等を使用し、550グラムの発射薬を用いた場合、榴弾では343メートルの初速を得て、射角30.65度で4千メートルの射程が出るが、弾丸の経過時が25秒である。2千メートル以内が実用距離である。 その他、小銃はミニエー銃が主、これはフランスの歩兵大尉ミニエーが発明した弾底拡張弾を使用するライフル銃の総称であって、オランダ・アメリカ・ベルギーなど各国製のミニエー銃が輸入されたが、スネルやブラントと懇意な継之助であり、しかも慶応3,4年頃の購入となると前装銃中の最後の傑作品といわれた英国製の1853年式エンフィールド銃であろう。 この銃には歩兵銃と騎兵銃があり、口径は14.66ミリ、5条のライフルがあり、歩兵銃の全長は1250ミリ、銃身長840ミリ、重量3.88キロで、銃身と銃底は二個の環帯で固定されているため「二つバンド」とも称され、千二百ヤードの照尺があるから、それまでの火縄銃はもちろん、高島秋帆が紹介したゲベール銃とも比較にならぬ高性能の銃であった。このライフル銃の出現は、遠距離での直接射撃が可能になり、命中精度が格段に進んだことから、ナポレオン時代に見られる歩兵の密集突撃は通じなくなり、散兵による戦闘方式に変わった。
それでも長岡藩のような小藩がわずか1年足らずでこのような最新兵器で装備した軍隊を創設し得たのは、河井継之助のような非凡な人物があったからこそであろう。政治家として、財政家として、その能力は傑出したものがあった。 しかし、その長岡城も防備の油断からわずか1日で落城してしまい、継之助自身がガットリング砲を連発して敵数人を斃したとその奮闘ぶりが伝わるが、総指揮官が自分で射撃の自慢をしているようでは戦争に勝てるはずがない。このあたりに平生をヨーロッパ式に改革したと言っても形だけで、戦術思想においては依然として日本的なものから脱却していない。このあたりは河井をもってしても時間が足りなかった、限界と言える。せっかく数千両の大金を持って購入した最新兵器も、それを有効ならしめるための戦術が伴わなくては無用の長物に過ぎず、戦術的にも戦略的にも生かしきれないで終わった。鬼才河井をしても、結局地政学的・立場的な限界があったというべきであろう。 |