山田方谷との出会い
 ~備中松山へ~
 


 旅日記「塵壺」
継之助が備中松山に遊学するにあたって記し始めた旅日記に「塵壺」という冊子がある。この「塵壺」の記載が、備中松山での継之助の動静について詳細に窺えるものである。安政6年7月16日の条に、次のように記されている。
 
十六日 大雨 間々晴
妹尾より右に吉備の社を見て板倉に出づ。これは本道(山陽道)なり。板倉より松山道、分かれて城下まで八里、二里ばかりは平らなれどもあとはみな山にて、松山川(高梁川)とて玉島(瀬戸内海に面する港町)へ出払う川あり。六里ばかりの所は両岸は山にて川岸のみ行く。奇態のところなり。段々山へ入りても山高くならず、その中に少しの開けには家あり。松山もその広きところなり。何れも四方山にて、十町あるは覚束なし。地勢の変り奇妙なるものなり。いくら山の中にても稲もよく出来、竹も諸処にあり。夜、少々遅くなれども、盆の事故、道中にては宿を迷惑がる故、松山まで来る。昼過ぎは大雷雨なれども、夜は晴れて月も冴え、左岸絶壁故、前岸の山上に月照り、此方の山のかげ前山の半にうつる。中には清川流れて好風景なり。さらに夜道を厭わず、五ツ(八時)頃松山に着き宿す、云々。

上記の「塵壺」の記載によると、継之助は6月7日に江戸を出発してから、40日ほどの旅を続けて、7月16日に備中松山に到着している。山陽道から分かれて松山往来に沿っての道筋の特徴を、よく観察して記している。その記述の如く、現在でも高梁までの道路は、伯備線の列車線路と並んで高梁川沿いに北上し、屈折しながら山間を縫って六里ほど続く。このあたりの山々は、奥地の中国山地への入り口にあたり、まださほど高くはないが、山勢が両岸に迫り絶壁をなして、道路は谷間の川沿いに僅かに通じている箇所が多い。この地勢は備中松山藩の南に対する防備の上で注目すべき事である。
 方谷と対面する
継之助は、かくて備中松山に着き、当夜は城下の花屋という旅人宿に泊まった。ところが方谷は、この時は城下の屋敷を引き払って、さらに北方三里ばかりの西方村の長瀬というところに移居していた。「塵壺」の翌日の日記には次のように記されている。
 
十七日 晴 山田(山田宅に泊まる)
松山を立ってやはり山に沿うて三里ばかり奥へ入り、漸く山田の宅へ昼頃至る。いよいよ狭きところ為れども、前の如く様子は変らず、よほど良き家、昨年引移り、未だ普請も十分ならずと。面白きところなり。道々、新開の所も諸処に見ゆ。
行くと程なく逢われて、色々話もあり、己の胸中を開いて頼みしところ、よく聞き受けて「とくと御答つかまつるべし」といわる。既に受くるの口上なり。随分親切に云れ、夜、山田に宿す。昼夜、大体、出て居らる。
○ 佐久間(象山)に温良恭倹譲の一字、何れ有るとの論。
〇 封建の世、人に使われる事出来ざるは、ツマラヌ物との論。
〇 一村に一丁ずつ新開を申し付くるという事。
〇 公(板倉勝静)の水戸一条に付き、山田への御問に答えらるる書の後に書きし文を内々見る。
外、数々話あれど、追て緩々記すべしと、一々は心に留めず。

この記述は、方谷との初対面の日のことを、短文ながらよく書き留めている。
 対面までの様子
上記の「塵壺」の記述から、対面までの様子をたどってみる。
長瀬というところは、備中松山城下からさらに三里ほど高梁川に沿って北上した地点であり、四面が山で囲まれていることは城下の地勢と変わりはないが、ここはいよいよ狭く、両岸の山は急斜面をなして迫り、地名の如く川が長い瀬をなしてその底を流れている。その東岸の山麓に、方谷は屋敷を構えた。当時は人家はほとんどなかった。
「山田方谷先生長瀬邸図」によると、部屋数は大小およそ十室ほどで、その他に仏間、禅堂、茶室を設けており、また湯殿、井戸場、水場、土蔵、納屋、牛馬小舎、漬物置場など、こまごまと心が配っており、方谷自身の設計と思われるが、ここで自立できる小城郭の如き一区画をなしていたことが想像できる。方谷は何故城下に賜わった屋敷や家塾の牛麓舎を離れて、わざわざこの長瀬の地にこのような屋敷を構えたのだろうか。
また、「道々、新開の所も諸処に見ゆ」と「塵壺」にあるのは、城下から長瀬までの道中で、新しい開墾地を諸処に見かけたものと思われる。これは方谷の奨励である。継之助は新しく行われている改革の一面を見て取っただろう。
「塵壺」にはさらに、「行くと程なく逢われ、色々話もあり」と記しているが、方谷は藩の政務に多忙なので、継之助の入門に難色を示した。後年、方谷門下の三島中洲が撰した「故長岡藩総督河井君碑」によると、継之助は「吾は先生の作用を学ばんと欲す。区々たる経義や文章を問うに非ず」と言ったという。作用とは事業の意味であろう。方谷はその言に感じて入門を許した。「塵壺」に「己の胸中を開いて頼みしところ、よく聞き受けて云々」と記しているのがそのことであろう。継之助のひたむきな気象もわかるようである。方谷は長岡から遠くまで訪ねてきた継之助の熱情にほだされたのだろう。「既に受くるの口上なり、随分親切に云われ、云々」と継之助は記しているように、方谷の人情味を早くも感じ取ったようである。しかし入門させるには藩の許可が必要なので、方谷は当夜は継之助を自宅に泊まらせたが、翌日はまた城下に返して花屋に宿を取らせた。



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