継之助の勉学
 ~読書好き~
 


 書物を書き写す
継之助の妹の安子が、「兄は毎々、書物を汚すようでは駄目だと申しておりましたが、書物は非常に好きで、宅におりました時分には、夜など四角の行燈の三方を囲って一方を明るくし、夜晩くまで勉強しておりました。20歳前後の事と思いますが、他所から書物を借りて、藩の祈願所の玉蔵院に毎日籠って、すっかり写し取ったそうです」
二宮山玉蔵院は城下の玉蔵院町に所在した、長岡城下きっての最大寺院であった。本堂は二十間四方、長槍が振り回されるほどの高さがあった。
長岡城の北東の外郭に位置し、藩主牧野家の祈願所となっていた。その一方で、現在で言う文化センターの役割を果たしていたようで、冬期間の槍術の稽古を本堂を使って行っていたり、書庫には古今東西の万物の書物が集められていた。継之助はこの玉蔵院に通って、書物を書き写したのだという。その中には佐藤一斉の「言志禄」があり、陽明学への傾斜がうかがえる。
 様々な学問を学ぼうとする姿勢
だが、継之助は必ずしも陽明学一辺倒ではなく、嘉永3年に書き写した柴野彦助上書写など、多くの学問を学ぼうとしていたことが伺える。
柴野は、その号を栗山といい、尾藤二洲、古賀精里とともに寛政の三博士といわれた。その柴野の主張は「異を拝して道を衝く」の姿勢を崩さなかった人であった。つまり、異端を排除してこそ王道の核心を衝いていることがわかるというのである。
柴野は、讃岐の在郷の出身で、学問を志してから、いかなる困難にも立ち向かい、松平定信によって上げられて、幕府の儒官になっている。柴野はそれまで流行していた徂徠学派の学風を一変し、程朱(朱子学)学を取り、幕府の学政をただしたことで知られている。その性格は豁達にして、士を愛したというが「談笑の間、事、節義に渉れば、音吐激烈して、座人を感動」せしめたなど熱弁の学者であった。
柴野の立身を、継之助は諒とし、その心意気を尊敬したのであろう。柴野の上書(方針の伺い書)を丹念に写し取る継之助には、柴野の心情がよく理解できたに違いない。自分にも、柴野彦助の主家筋にあたる蜂須賀候や老中松平定信のような救世主が現れることを期待しての写本であったかもしれない。
 己の政治姿勢に生かすべく
これらの筆写が継之助の素養を高めていったことは確かである。崇徳館においての座学は好まなかったが、良い本を見つけると筆写し、とことん読み込む姿勢が、継之助の実力を養っていったといえる。




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