天保6年(1835)土佐藩の町人郷士才谷屋の分家に生まれる。
二男三女の末っ子として過保護に育てられたらしく、幼少時は泣き虫で気が弱く、いじめられっ子であった。そんな龍馬を立派な男小にしてあげたいと鍛えたのが、姉の乙女であった。乙女の教育で成長した龍馬は、剣術を学び、19歳の時江戸へ出て北辰一刀流千葉周作の道場に入門。5年後には免許皆伝を受けるほどになった。
江戸でペリー来航に直面し、水戸藩士の攘夷論の影響を受けて、父への手紙に「異国の首を討ち取る」と書いたほどの龍馬であったが、土佐帰国後、河田小龍と接してからは、国際情勢の認識に大きく眼を開くようになった。
文久元年(1861)、武市瑞山の土佐勤王党に加盟するが、翌年脱藩し、九州を遊歴後、江戸へ出た。その際、幕臣だった勝海舟と会見。勝は龍馬に世界情勢を説き、海軍の必要性を強く認識させられた。
勝の神戸の海軍操練所設立に、龍馬も助力する。しかし元治元年(1864)勝が失脚し、操練所も閉鎖されると、龍馬は薩摩の小松帯刀、西郷隆盛を頼り、薩摩の庇護を受けながら、長崎に亀山社中を設立。海運貿易をはじめ、やがて海援隊と発展していく。その間、土佐の同志中岡慎太郎とともに、薩長和解に奔走し、慶応2年(1866)1月、薩長同盟を成立させた。
慶応3年(1867)6月、龍馬が長崎から京都へ向かう途中、藩船夕顔丸の船上で起草した新国家体制についての八箇条の構想が「「船中八策」である。議会制民主主義の祖型ともいうべきもので、後の明治政府の「「五か条の御誓文」の基案となった。この案をもとに、後藤象二郎が山内容堂を動かして、大政奉還の建白書を幕府に提出させたとされている。
大政奉還から1か月後、龍馬は中岡と共に、京都の近江屋の二階で資格に暗殺された。享年33。 |