ドキュメント坂本龍馬 ~脱藩~ |
西国での攘夷の遊説を目的とした彼らは、立川番所で入国を認められず、11月18日に龍馬に手紙を書き、入国の便宜を図るよう依頼してきたのだ。龍馬とは北辰一刀流の玄武館で面識があった清河八郎の紹介によるものと思われる。 龍馬は住谷の一行のもとへ赴いたが、彼らの力になることはできなかった。住谷は「龍馬誠実かなりの人物、しかしながら撃剣家、事情迂闊、何も知らぬとぞ」と評し、土佐への入国を断念し、宇和島へ向かう。 「維新土佐勤王史」によると、住谷は「老中の名前さえ知らぬ田舎漢を、はるばる尋ね往きたるは、愚の至りなりし」と語ったという。住谷らと龍馬とでは、攘夷に対しての認識に差がありすぎたのである。 その2年後の文久元年(1861)8月、前年の万延元年(1860)3月3日の桜田門外の変に触発された武市瑞山が、江戸で「土佐勤王党」を結成し、9月に帰国すると同志を募集した。武市と龍馬は旧友であり、縁戚関係にもあった。龍馬は武市の勧めに従って勤王党に加盟した。しかし、武市の目的は土佐一藩の勤王化にあり、江戸での攘夷派や住谷らの存在を知る龍馬には物足りないものであった。龍馬は藩内での活動ではなく、広く各地を飛び回ることを望んでおり、脱藩を計画した。 それを示すのが、9月13日付で前年より公務のために在京中だった、平井加尾に宛てた手紙である。
頭巾と細身の刀は、龍馬が必要とするのではなく、加尾が顔を隠し、腰に差すもので、これに羽織袴を身に着ければ男装の加尾が出来上がる。つまり、龍馬は脱藩後に男装した加尾とともに行動しようと考えていたのである。 手紙には脱藩を思わせる文言はないが、この指示を見ただけで加尾は龍馬の意図を知ったはずである。加尾は手を尽くして品物を用意したが、その後、龍馬から再び連絡が来ることはなく、二人の中も自然消滅してしまった。 文久2年(1862)正月、龍馬は武市瑞山の依頼により、藩庁から丸亀での剣術修行の名目で国元を離れる許可を得ると長州へ渡り、1月14日萩に到着した。ここで久坂玄瑞と出会う。久坂と武市は旧知の間柄であり、翌日、すぐに面会することができた。 武市の依頼は久坂に手紙を届けるというものだったが、狙いが龍馬に久坂を引き合わせることにあったようだ。武市は龍馬が久坂という攘夷家と接することで、成長することを願っていたのだろう。 久坂の武市への返書には、諸侯や公家が頼むに足らない存在であるため、最早名もない在野の草莽が立ち上がらなければならないことを述べ、さらに「尊藩(土佐藩)も幣藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」という、過激な認識を示している。当然、久坂は龍馬にも同じことを説いたはずだ。 久坂の認識は武市の一藩勤王とは異なるものだったが、武市はこうした情熱、あるいは覚悟を龍馬に教えたかったのである。
大洲に到着した27日には、土地の豪商で先に脱藩した吉村寅太郎が世話になった冨屋金兵衛方に宿泊し、翌日には海路を長州の三田尻に渡り、4月1日に下関に到着した。 下関で京都へ向かう沢村と別れた龍馬は、鹿児島へ向かったが入国を拒否され、大坂へ転じた。その後、さらに江戸まで足を伸ばし、8月中旬には到着したようだ。 江戸では小千葉道場に寄宿したようだが、千葉家には別れた佐那がおり、佐那は「坂本さんはその年(安政5年)の9月、国へ帰り、再び私の道場へは姿を見せませんでした」と語っている。 さすがに別れた佐那のいる家には、龍馬も顔を出しにくかったのだろう。龍馬はおそらく土佐勤王党の同志の家で、居候のように世話になっていたものと思われる。 なお、脱藩の際、柴田作右衛門に嫁いでいた姉の栄が、夫に黙って柴田家の家宝の刀を龍馬に与え、その責任を取って自害したという悲痛なエピソードがあるが、事実ではない。刀を渡したはずの栄は、弘化2年(1845)に死亡していたことが、彼女の墓石が発見されたことによって明らかとなり、脱藩の17年前に死んでいた栄が刀を渡すことなどできるはずもなく、自害も当然できるはずがない。 姉から刀を与えられた「姉」とは、栄えではなく乙女からだったのだ。 |