ドキュメント坂本龍馬 ~勝海舟~ |
当時は「言路洞開」という上層部の人間が身分を問わずに諸人の意見を聞く方針があり、福井藩では翌日の面会を許可した。翌5日、龍馬ら3人は春嶽に対面して大坂近海の防御策について意見を述べ、春嶽はそれに耳を傾けている。攘夷一辺倒ではなく、聞くに値するものだったようだ。 春嶽はブレーンとして肥後藩士の横井小楠を招聘していたが、小楠は富国強兵・海軍振興のための開国を必要と考えており、その実現には幕府が政権を朝廷に返上する大政奉還の必要性を説いていた。春嶽もこれに賛同しており、ただの攘夷論に耳を傾けたはずはない。その席で、龍馬たちは春嶽に小楠と、やはり海軍振興と大政奉還を訴える、幕府軍艦奉行並の勝海舟への紹介を依頼した。当然、彼らの考えを理解しようと、詳しく話を聞くためだった。 春嶽はこれに応じ、龍馬は9日に藩邸を訪れて紹介状を手にすると、その足で赤坂に住む勝海舟のもとを訪れた。同行したのは近藤長次郎と、間埼哲馬に代わって門田為之助である。 このとき、龍馬は開国論者の海舟の暗殺を目的としていたとされるが、これは海舟が「氷川清話」で、「坂本は俺を殺しに来た奴だが・・・」と語ったためで、現実には春嶽の紹介状を携え、最初から入門するつもりで訪問したのである。 海舟は龍馬らに、これまでのように幕府や藩という単位で海軍を興すのではなく、日本国としての海軍を成立させなければ、外国に対抗することができないことを説いた。それには大政奉還を行い、挙国一致での新体制をつくらなければならない。その第一歩が大政奉還なのである。龍馬たちは直ちに入門を願い出て、海舟もそれを受け入れた。
さらなる転機が訪れたのは、上坂中の将軍・徳川家茂が順動丸で大坂湾の巡視を行った時のことである。4月23日、随行していた海舟が家茂に海軍の重要性を説き、神戸に海軍操練所を建設すべきことを直訴した。すると、家茂は開設を即断し、翌日には海舟を操練所の取建掛に命じ、次いで操練所完成まで、大坂に私塾を開いて海軍術を教授することも認められたのだった。 5月になって龍馬が乙女に書いた手紙には、「ちか(近)きうちには大坂より十里(約40キロ)あまりの地にて、兵庫というところにて、おおきに海軍を教え候所をこしらえ・・・」と、操練所設立を報じる一節がある。日本海軍創設に向けての第一歩であり、龍馬の夢への第一歩でもあった。 一方、京都に舞台を移した政局は混沌としており、攘夷親政を唱えて朝廷内に大きな影響力を持っていた長州藩は、3月に賀茂社、4月に石清水八幡宮への攘夷祈願の行幸を実現させ、公武合体を推進しようとする幕府を追い込んでいた。さらに8月には大和行幸を計画しており、これが実現されれば幕府が窮地に立たされることは必至だった。 そこで8月18日に決行されたのが、公武合体派の薩摩藩と会津藩が提携し、長州藩と長州藩に加担する公家たちを京都から追い出すための政変である。政変は成功し、長州藩と七人の公家は京都を去った。 政変は公武合体派の勢力を増強させ、公武合体論者の山内容堂は反対派の弾圧を開始する。翌元治元年(1864)2月には龍馬ら海舟の門人たちにも帰国命令が出された。
5月29日、幕府は操練所建設の覚書を公布した。そして、修行生は神戸という土地柄、西国に限っているが、幕臣の子弟や厄介のほか、諸藩士であっても「有志の者は罷り出て修行致すべく候」と募った。 幕府と藩の壁を越え、海舟の描く「日本海軍」が実現しようとしていた。 だが、その希望を打ち砕いたのが禁門の変であった。 6月5日、反幕過激派が会合中の池田屋に新撰組が踏み込み、彼らを殺害・捕縛した。この報が長州に届くと、前年の政変以来入京を嘆願しては拒まれた長州藩は、武装請願と称して藩兵を京都周辺に送り込み、6月下旬より警戒する幕府軍と対峙する。 そして、7月19日には御所を目指して進軍した長州藩兵が、警備の薩摩・会津等の藩兵と衝突した。激闘の末、長州藩兵は敗走し、長州藩は朝敵とされ、これが長州征伐・長州再征戦へと発展することになる。 この池田屋事件と禁門の変に、海軍操練所の修行生が関与していたため、幕府は操練所を危険視して内偵を行い、11月には責任者の海舟を江戸に呼び返し、罷免するのである。事実上の操練所の閉鎖だった。 海舟は江戸へ帰る間に、薩摩藩に龍馬ら土佐脱藩者の身柄保全を依頼していたため、彼らは薩摩藩邸に身を潜め、翌年には鹿児島へと渡航することとなる。 海舟は9月11日に、薩摩の西郷吉之助の訪問を受けている。そのきっかけとなったのが、龍馬と西郷の面談だった。面談後、龍馬が海舟に西郷の人物評を求められると、「少しくたたけば少し響き、大きくたたけば大きく響く」(氷川清話)と答えたのは有名な話である。 この時の接触によって、西郷も海舟に興味を抱き、面会を申し出たのだった。西郷は雄藩が連合して幕府への対抗勢力とするという海舟の持論を聞き、幕臣でありながら、幕府を否定する思考回路の海舟を「どれだけか智略のあるやら、知れぬ塩梅に見受け候」と評価し、「ひどく惚れ申し候」とまで手紙に書いている。 この時に信頼関係が築かれたからこそ、海舟は薩摩藩に龍馬らの身柄を託したのである。 |