龍馬の人間像変遷 ~白柳秀湖~ |
第3のブーム、それは明治維新百年前後の時期であり、このブームを代表する作品は、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」である。とすれば、第2ブームを代表する者はだれか。尾崎は坂崎紫蘭と司馬遼太郎の間に白柳秀湖を入れる。 「維新戦線の健闘児」と副題のついた「坂本龍馬」を白柳秀湖は大正13年から15年にかけて「雄弁」に書いた。「民権講談」から「平民講談」を経て「社会講談」に至る系譜ー「庶民的な話芸伝統を、売文社当時の冬の時代をくぐった白柳秀湖が受け継いで、40年後に再び龍馬を登場させ「社会講談」の締めくくりの作品にしたのである。
武一のあごと龍馬のほらとの矛盾も出ており、初期龍馬において、国を開いて外国と商取引をし、外国の新しい器械器具を取り入れて国を強くし、民を富ますことと、朝廷の見方をして、幕府を倒し、日本の国を建て直すということとは全く別にして考えるという発想が語られている。 また井伊大老暗殺事件での討論で、「但し之は赤穂浪士の復讐と違い、相手の首級を挙げることが最後の目的ではなく、幕府をして天下の輿論を無視し、横柄を以て是非を遂げんとすることの如何に恐るべきかを知らしめることが根本の主旨でなければならぬ。水戸浪士の挙は果たして幕府をして公憤の恐るべきを知らしめ、其政策を改めしむることが出来るかどうか。その結果を見たうえでなければ、軽々に之を批評することはできぬ。」と龍馬に語らせているが、ここには政治責任は究極的に結果責任により判断すべきであって、心情倫理によるべきではないとする政治の論理が展開されている。 白柳秀湖は龍馬が皇室を中心とする新日本の建設という目的を達する一時の方便として、当時もっとも俗耳に入り易かった攘夷論者と歩調を合わせていたが、外交問題に関しては、はじめから開国新取を理想とし、西洋文明の長所をとって、新日本建設の基礎とする点において、吉田東洋と全くその所見を一にしたとしている。初期龍馬から後期龍馬まで勤王思想と開国論の一貫性の主張である。
「坂本龍馬は今日でも改造論者の間に良くありがちの小さい理智のために囚えられるということなく、大体の主義、精神さえ一致すれば何人とも握手提携することを避けなかった。些細な点に異を立てて、仲間喧嘩に精魂を傾け、反って其主義、精神の最も遠いものと握手提携するというようなことはなかった。」 「龍馬の偉大は此点にある。読者がもし此点に深い理解を持たなかったならば、彼の行動は天馬の空を行くが如く、雲流の天にのぼるが如く、ある時は尊皇攘夷論者と見え、ある時は佐幕開港論者と見え、またある時は公武合体主義者と見えて、ほとんどその捕捉に苦しむものがあるであろう。坂本龍馬は10年1日の如く、「節義」の芝居を打って、新聞紙の喝采に一身の行動を束縛されている何とかの、「神様」から言えば、まさに一個のオポチュニストであろう。そうだ。龍馬は官僚と提携し、閥族と妥協してまでも、喧嘩仲間に憂き身をやつす10年苦節の士ではなかった」 ここに引用した文章の中に、白柳秀湖の龍馬観は集約されていると思われる。このオポチュニストという表現は状況を読み、状況と格闘するプラグマチスト、次第に蓄積した経験を原理的に考えていく、無限に成熟していくプラグマチストと読み替えることが出来よう。 後期龍馬において、薩と長のそれぞれの藩の状況、薩長連合までの屈折した歩みもかなり描かれているし、いろは丸衝突事件でも、外国の例に倣って理非曲直を明らかにし、日本国の海路定期の基を立てる龍馬像もある。 船中八策も出てくる。しかし、大政奉還の政治過程の進行の原点、龍馬と後藤象二郎の出会いについて、秀湖は後藤と龍馬がまったく意気投合し、「龍馬は薩長の倒幕主義から、漸次後藤の公武合体主義の方に引き付けられていった。実に後藤との会見は、龍馬の生涯の一転機となった」とみている。そして自由人・龍馬が後藤の部下に組み入れられたかのように、後藤に対する言葉遣いまで敬語を使い、中岡たちの倒幕計画を密告し、あまつさえ、どうせ久しい天下ではありませんと「贋金の製造」を後藤御留守役に進言する場面も出てくる。 このように後藤象二郎の密偵型情報係、スタッフとして後期龍馬の終わり近くを卑しく描いた白柳秀湖が「維新戦線第一の健闘児であり、封建制度破壊の急先鋒であった坂本龍馬は同時にまた新国家組織建設の大天才であった」というとき、白柳秀湖の描く龍馬像の矛盾、分裂の大きさを感じざるを得ない。 |