坂本龍馬とは ~武芸者龍馬~ |
坂本龍馬は、幕末剣客の一人としても後世に名を遺している。だが、剣客として本当に強かったのか。伏見寺田屋の活躍や、京都近江屋の壮烈な最期などドラマチックに伝えられているが、もし本当に強かったのであれば、あんなあっけなく斬られていたはずはないという見方もある。 剣客としての龍馬は、北辰一刀流千葉定吉門下の逸足として有名だが、安政5年(1858)3月、定吉から受けた同流「長刀兵法目録」をみると、定吉の長男重太郎一嵐のほかに佐那、里幾、幾久の三女子が名を連ねている。剣術の免許状に女性の名が連署されていることは少し異例ではないかと考えられなくもない。 最も見方を変えると、千葉道場では女性を軽視していなかったのではないかとも思われる。龍馬に後年伝わるようなフェミニストの一面があったとすれば、案外、千葉道場の雰囲気からその影響を受けたのではないか。千葉道場時代の龍馬を知ることで、龍馬の研究がさらに進むかもしれない。 龍馬は北辰一刀流の他に小栗流和術を修行している。龍馬はその師匠である日根野弁治から「小栗和流兵法事目録」を伝授されたのが嘉永6年(1853)3月で、翌安政元年閏7月には「同流兵法十二カ条・同二十五カ条」を伝授、さらに文久元年(1861)10月には「同流兵法三カ条」の免許を受けた。とすると、武芸に関する限り龍馬は、北辰一刀流よりも小栗流和術に年期をかけたことになる。 ちなみに、文久2年(1862)正月、長州萩の修行館で少年剣士と立ちあって三本とも打ちこまれた。龍馬は弁解もせず「拙者が弱いから負けたのだ」とあっさり答えたそうだ。また、年歴は不明だが、江戸で和術家信田歌之助(水戸藩士)を訪問、指南を求めたところ、三度まで首を絞められて失神したが、蘇生すると「先生もう一度」と稽古を求めるので歌之助も「もうよいではないか」と閉口したという。何れも伝承の域を出ない話だが、龍馬が無敵の強さを誇ったというわけではなさそうだ。 龍馬はかつて、佐久間象山の洋式砲術門下生となっているし、勝海舟のもとで海軍術を修行しており、明治維新という歴史的な舞台において、在野志士として活躍をした坂本龍馬を一武芸者、一兵学者の枠にはめて論じることは至難である。もっと大きな視点から、龍馬の足跡を検討していかなくてはならない。 |