ドキュメント坂本龍馬
~剣の道を志す~
 


 龍馬愚鈍伝説の真偽
天保6年(1835)坂本龍馬は土佐国高知城下本丁筋一丁目に生誕した。父は土佐郷士の坂本八平、母は幸。すでに八平と幸の間には、22歳になっていた長男の権平、高松家に嫁いでいた19歳の千鶴、次女の栄、そして三女で4歳の乙女がいた。坂本家は高知城下で手広く商いを営む豪商・才谷家の分家で、多くの郷士が農村に住む中で城下に暮らして197石の領地と、10石5斗の禄を与えられており、暮らし向きは裕福だった。
伝承によると、幼少期の龍馬は泣き虫の上に口数が少なく、周囲から愚鈍な子供と思われていたという。また12,3歳になるまで寝小便癖が抜けなかったとされ、少なくとも利発な子供だったという印象はない。
しかし、寝小便癖があったと書いた「坂本龍馬」の著者・千頭清臣は、幼少期の龍馬を知る人物に聞いた話として「坂本は決して馬鹿者ではない。子供相当の分別ありし人なりきという」ともしているので、龍馬が愚鈍だったというのはあくまでも伝説の域を出なさそうだ。
弘化3年(1846)12歳になった龍馬は城下小高坂の楠山庄助の私塾に通う。しかし、学友にしばしばからかわれ、13歳の時には自分を馬鹿にした学友に斬ってかかり、これがもとで塾をやめたとも、逆に斬りつけられたため、両親が心配して退塾させたともいわれている。
楠山塾への入学と、程ない退学は事実であり、龍馬自身が「余(龍馬)、早くより学を廃し、今は不幸にして無学者となれり」と語っている。龍馬が「無学者」と称したのは、当時武士が必ず身につけるべき漢学を学んでいないという意味である。そのため龍馬には漢詩が残されていないのである。
 剣術修行の日々
龍馬が城下築屋敷に小栗流の道場を開く日根野弁治に入門したのは、嘉永元年(1848)のことである。これを機に寝小便癖が治ったというが、その真偽はともかく、龍馬は稽古に励み、稽古は龍馬を成長させてくれた。
19歳となった嘉永6年(1853)3月、龍馬は小栗流の初伝である「小栗流和兵法事目録」を授けられ、藩庁の許可を得て江戸への剣術の修業に出る。
龍馬は次男である。坂本家を継ぐのは長男の権平であり、このままでは「厄介」として権平のもとで過ごさざるを得なくなってしまう。坂本家では、龍馬を分家させるために、剣術での自立を考えた。龍馬が道場を開くことができれば、分家も可能である。
龍馬は一人前の剣術家となるべく、嘉永6年3月17日江戸へ向けて旅立つ。懐中には父親が授けた「片時も忠孝を忘れず、修行第一の事」「諸道具に心移り、銀銭費やさざる事」「色情にうつり、国家の大事を忘れ、心得違いあるまじき事」と修行に専念し、無駄遣いをせず、女性に迷わないこと、を注意した三か条の「修行中心得大意」があった。
4月中旬、江戸へ到着した龍馬は、築地にある土佐藩中屋敷の長屋で暮らしながら、北辰一刀流の千葉定吉の道場に通った。定吉は北辰一刀流の開祖・千葉周作の弟で、周作の道場「玄武館」が「大千葉」と称されたのに対し、「小千葉」と呼ばれていた。龍馬が通った小千葉道場は、桶町(八重洲・京橋)にあったとされるが、実はこのとき道場があったのは、「新材木町(中央区堀留)」であった。
 黒船来る
龍馬が小千葉道場に通い始めて間もない6月3日、アメリカ艦隊を率いたペリーが日本に来航し、鎖国を国是としていた日本に開国を要求した。6日、幕府は江戸湾周辺に藩邸を持つ諸藩に警戒を命じ、藩士たちを「臨時御用」として召集し、龍馬もその中に含まれており、修行を中断して警備陣に加わった。
ペリー艦隊は翌年1月の再来航を予告して12日に退去したが、開港と攘夷をめぐって混迷、激動する幕末という時代がここから始まることになる。
臨時御用として拘束された期間は3か月ほどだったようで、自由の身となった龍馬は9月23日付の手紙で「異国船御手当の儀は、まず免ぜられ候・・・・」
臨時御用から解放された龍馬は、再び小千葉道場での稽古に励んでいたが、12月になって西洋兵学家として知られる信州松代藩士の佐久間象山の砲術塾に入門した。既に象山の塾には、他藩士とともに溝渕広之丞ら十数人の土佐藩士が名を連ねていたが、これに龍馬も加わったのだ。その後、帰国すると土佐の砲術家・徳弘孝蔵の塾に入門し、安政2年(1855)に仁井田浜で行われた塾生の実射稽古に、兄の権平とともに参加している。
最も象山は、安政元年(1854)1月に吉田松陰の密航計画に協力した罪で、幕府によって国許で蟄居を命じられてしまい、龍馬が象山の教えを受けたのはほんのわずかな期間であった。




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