龍馬と脱藩 ~幕末脱藩事情~ |
水戸の脱藩者が天下の耳目を驚かせたのは、万延元年(1860)3月の桜田門外の変である。井伊直弼の行列に斬り込んだ水戸藩士たちは、その直前に藩の役人に宛てて脱藩届を書いていた。我々の行為によって家中に嫌疑がかけられてはいけないので、どうか「御暇」いただけるように取り計らってほしいという趣旨のものである。水戸徳川家の家来の身分のままで幕府の大老を暗殺したのでは、主家に迷惑がかかる。それを回避するために、家来の方から主従の縁を切ろうとしたのである。ここには藩が持ってる「家」という側面、主家と家臣が主従関係の絆で結ばれているという側面が強く表れている。その絆を家臣の方から切れば、脱藩が成立する。 水戸の脱藩がすべて上記のようだったわけではなく、万延元年の段階ですでに水戸独特の党派の争いが武力衝突事件を引き起こすところまで激化しており、桜田門外の変参加者には、反対派による弾圧を逃れて国許を出奔したものも多かった。その場合は、まず藩の領域から脱出し、次いで井伊暗殺に際して暇願を出すという二重の行為が認められる。水戸の党争は、この後年を追って激化していき、藩域を超えての武力行動、戦争、反権力の事実上の崩壊というところまで進む。そこまでくると、勝手に藩外に飛び出す人間がどんなに多くても、もう脱藩という概念では処理しきれない。万延元年の脱藩にも、そちらの方向へ展開していく萌芽がみえていないわけではない。 それでも桜田門外の変における水戸の脱藩を印象付けているのは、藩に迷惑がかかることを避けるための「御暇」願だということである。「御家」を大切に思い、「御家」に累を及ぼさないための脱藩である。家臣にそういう行動をとらせる「家」、という要素を藩は持っている。
だが、那須らの脱藩も、法治国家という見地からすればおかしなところが無いわけでもない。まず東洋暗殺は、武市瑞山を首領とする土佐勤王党が決定したことであり、那須ら3人はその実行担当者だというに過ぎない。それも初めからこの3人だと決めていたわけではなく、いくつもの3人組が作られて、順番に狙った。複数の3人組のうち那須らの組が斬るのに最も条件の良い夜にぶつかっただけに過ぎないようだ。 しかも、暗殺実行者も3人だけでなく、宮田頼吉はじめ大勢の同志が助太刀に赴き、致命傷は宮田か斬りつけたものだと思われる記録もある。また、脱藩を急ぐ那須らに代わって首を晒す仕事をしたのも、別の一群だったようだ。那須らは、勤王党が組織をあげて取り組んだ暗殺の罪を代表して引き受け、脱藩したのである。そして脱藩することにより、犯人がこの3人であるということを間接的に公表し、それによって首謀者と組織とを守る効果が見込まれていたことになる。彼らは捕まってはならず、ひたすら逃げなくてはならない。 那須らの脱藩が上記のような効果が期待されねばならなかったのは、首謀者武市瑞山が、東洋暗殺の罪を逃れ、成果を手に入れようとしたからである。罪を逃れるには、重役を斬ったことが犯罪として追及されかねないところまで藩の体制をひっくり返してしまうのが一番良いように思えるのだが、武市にそこまでやるつもりはなかった。現行法治体制としての藩機能は残し、その主導権を掌握しようと目論んでいたのである。そのためには暗殺行為の責任代表者を作り、彼らを脱藩させるしかなかった。 だがこの脱藩、土佐勤王党にとって高くついている。東洋暗殺が犯罪だという関係がどこまでもつきまとい、土佐勤王党はそこから脱却できなかった。文久3年から元治元年、さらに慶応元年にかけての土佐勤王党の獄では、東洋暗殺が重大犯罪として追及され続け、武市以下の大量の処刑を招いた。獄から逃れるためには、第二、第三の脱藩を決行するしかなかった。暗殺の代表責任を引き受ける方法が脱藩ではなく、暗殺現場での自殺であれば、もう少し後の展開は変わってきたかもしれない。 上記のような脱藩は、やはり法治領域国家からの脱出である。近代国家における密出国や政治的亡命に類似し、のちの勤王党の獄に関わる大量の脱藩も、同種類のものであるといえる。
藩はまず藩主とその家臣団によって構成され、藩主と家臣団の間は、武家独特の主従関係で結ばれている。主従関係で結ばれた武士団が一団となって、武士以外の諸階層民を支配しているわけで、個々の武士は、藩主との武家的主従関係に入っているがゆえに藩の一員である。この主従関係を切れば、脱藩が成立する。この脱藩の場合には、藩の領域の外にいるか内側にいるかということは主たる問題ではない。 藩にはもう一つ、小さな領域国家という性格がある。藩主を国王とする小王国である。上に幕府という上位の領有権を持つ存在があるので、完全な主権国家とは言えないが、領域内人民の日常生活という観点から見れば、まぎれもなく藩が国家である。法体系は近代国家のように整備されてはいないし、身分制社会であることは無視できないが、単一の主権者のもとにある法治的領域国家という性格が強いことは事実である。そうして、こちら側から見ていけば、一般武士も主権者の統治下にある領域国家の一員である。特権階級ではあるけれども、国家的統制から免れているわけではない。そうして、その国家的統制は領域内にとりわけ濃厚にいきわたっており、藩域の外に出ると極端に薄くなる。そこで、統制から逃れるためには、藩域の外に出ることが有効な手段となる。犯罪者の逮捕は困難となり、ことに政治的亡命者が他藩に匿われると、手が出せなくなることが多い。文久2年、吉田東洋暗殺に際しての那須信吾らの脱藩には、この領域国家からの脱出という側面が強く働いている。土佐が一国一藩で、南は太平洋、他の三方は千メートル級の高い山の壁で囲まれているため、領域国家と、そこからの脱出という印象は一段と強い。 |