龍馬と脱藩 ~龍馬の脱藩~ |
また龍馬は、逮捕を逃れるために脱藩したわけでもない。藩法を侵したから脱藩したのではなく、脱藩によってはじめて藩法を犯したのである。罪を逃れるための密出国でもなければ、政治的亡命でもない。脱藩という行為自体が最初にあったのだ。だが、龍馬の場合、脱藩して何をするという目標が明確であったとは思えない。尊攘激派の暴発へとまっしぐらに突き進んだ吉村寅太郎とはそこが違う。 では、なぜ龍馬は脱藩したのか?結局は、藩という規格に合わなくなったという他はない。あくまでも一藩勤王を唱えた武市瑞山と感覚的な違和が生じたのだろう。あるいは、東洋暗殺を必至とする土佐勤王党の方針に嫌気がさしたのかもしれない。 当時の脱藩とは実に大変なものであっただろう。このときの藩は、現在の国、日本人にとっては日本国に相当すると考えて、ひどく見当違いではないかと思えるが、その日本国を脱出するのは容易ではない。それどころか、世界中が近代国家によって埋め尽くされている現在では、真の意味で「国」から脱出することは不可能であろう。龍馬もきっとそれに近い困難さを味わったのだろう。
それに加えて、幕末は日本がヨーロッパ型近代国家に対面しているという新情勢が出現した。欧米諸国の圧力、その諸国との条約締結は、日本に内実は不足したままで外装だけはヨーロッパ近代型の国家の真似をする事を強いた。例えば幕府には対外的には日本国政府のふりをせねばならず、徳川将軍は日本国元首として条約を批准せねばならなかった。しかし日本の中身は、そういう国家的対応の用意を欠いた幕藩制であって、国家の真似をするにはだいぶ無理がある。無理があるにもかかわらず真似ができたのは、目の前にアメリカやヨーロッパの国家が出現し、それがモデルになっているからである。 現在の脱国家と条件が違うのはこのあたりであろう。龍馬型の脱藩は、藩を超えた世界が、欧米の国家と日本との落差、つまり日本の近代国家形成の可能性として、精神的に手の届くところにあった。龍馬はそれを目指して脱藩したといえるかもしれない。
勝はこのとき、幕府の軍奉行並である。江戸の軍艦操練所を管轄して幕府の海軍行政全般を取り仕切る役目だが、その勝も幕府海軍の持つ二面性に悩まされていた。一つは幕府旧来の性格がそうであったように、日本国内の諸大名を圧倒しきれるだけの隔絶した海軍力を、幕府直臣団だけで運用したいという幕府内に根強い願望。もう一つは、外圧に対抗するための日本海軍という新しい課題。勝は無論、就任以来一貫して後者の課題を追及していた。 前者の考え方は、幕府と藩という従来の構造に対応しているわけだから、それと脱藩人龍馬とが結び付くということはあり得ない。勝が後者であったからこそ、龍馬は脱藩の身を落ち着かせる場所を発見できた。勝と龍馬を結ぶ線の上に可能性としての近代国家日本国があり、それがとりあえずの形を結ぶのが、翌年から翌々年にかけての神戸海軍操練所だったということなのだろう。 |