龍馬と脱藩
~龍馬の脱藩~
 


 龍馬最初の脱藩
坂本龍馬の最初の脱藩は、文久2年3月である。吉田東洋暗殺の前月である。龍馬は藩に忠義のためでも、逆に藩に一言申すために脱藩したわけでもない。彼は、町人郷士の二男であり、藩主山内氏との武家的主従関係は左程切実ではない。何かをするために、この関係をあらかじめ切り離しておかねばならないというほどのことでもない。
また龍馬は、逮捕を逃れるために脱藩したわけでもない。藩法を侵したから脱藩したのではなく、脱藩によってはじめて藩法を犯したのである。罪を逃れるための密出国でもなければ、政治的亡命でもない。脱藩という行為自体が最初にあったのだ。だが、龍馬の場合、脱藩して何をするという目標が明確であったとは思えない。尊攘激派の暴発へとまっしぐらに突き進んだ吉村寅太郎とはそこが違う。
では、なぜ龍馬は脱藩したのか?結局は、藩という規格に合わなくなったという他はない。あくまでも一藩勤王を唱えた武市瑞山と感覚的な違和が生じたのだろう。あるいは、東洋暗殺を必至とする土佐勤王党の方針に嫌気がさしたのかもしれない。
当時の脱藩とは実に大変なものであっただろう。このときの藩は、現在の国、日本人にとっては日本国に相当すると考えて、ひどく見当違いではないかと思えるが、その日本国を脱出するのは容易ではない。それどころか、世界中が近代国家によって埋め尽くされている現在では、真の意味で「国」から脱出することは不可能であろう。龍馬もきっとそれに近い困難さを味わったのだろう。
 幕藩体制の限界
幕藩体制の構造を振り返ってみる。全国の土地で、藩に付与されていないところは広義の幕府領で、幕府も徳川宗家という巨大大名だとの解釈に立てば、これも藩領と同質の土地になる。つまり、日本国中全て藩領である。やはりそこから抜け出す方法はない。だが幕府には同時に、藩より上位にあって諸藩を統括する上級権力という性格があり、その直轄地の江戸、大坂、京都の三都には、藩レベルの土地人民支配とは次元の違うところが見られた。ことに江戸の場合、諸藩に籍を置くものや置かないものの雑居率が異常に高い。
それに加えて、幕末は日本がヨーロッパ型近代国家に対面しているという新情勢が出現した。欧米諸国の圧力、その諸国との条約締結は、日本に内実は不足したままで外装だけはヨーロッパ近代型の国家の真似をする事を強いた。例えば幕府には対外的には日本国政府のふりをせねばならず、徳川将軍は日本国元首として条約を批准せねばならなかった。しかし日本の中身は、そういう国家的対応の用意を欠いた幕藩制であって、国家の真似をするにはだいぶ無理がある。無理があるにもかかわらず真似ができたのは、目の前にアメリカやヨーロッパの国家が出現し、それがモデルになっているからである。
現在の脱国家と条件が違うのはこのあたりであろう。龍馬型の脱藩は、藩を超えた世界が、欧米の国家と日本との落差、つまり日本の近代国家形成の可能性として、精神的に手の届くところにあった。龍馬はそれを目指して脱藩したといえるかもしれない。
五里霧中で逃げ回った後に
だが、文久2年3月24日に高知城下を脱出し、26日に伊予に入ったという龍馬が、この時にどこまで明確なイメージを持っていたかどうかは正直疑わしい。むしろ脱藩後に、島津久光率兵上京が引き金となって形勢が一変しつつあった文久2年の日本を歩きまわって、次第につかんでいったとみるほうが良いかもしれない。そうしてその年の放浪の帰結として、冬の江戸における勝海舟との出会いがあった。
勝はこのとき、幕府の軍奉行並である。江戸の軍艦操練所を管轄して幕府の海軍行政全般を取り仕切る役目だが、その勝も幕府海軍の持つ二面性に悩まされていた。一つは幕府旧来の性格がそうであったように、日本国内の諸大名を圧倒しきれるだけの隔絶した海軍力を、幕府直臣団だけで運用したいという幕府内に根強い願望。もう一つは、外圧に対抗するための日本海軍という新しい課題。勝は無論、就任以来一貫して後者の課題を追及していた。
前者の考え方は、幕府と藩という従来の構造に対応しているわけだから、それと脱藩人龍馬とが結び付くということはあり得ない。勝が後者であったからこそ、龍馬は脱藩の身を落ち着かせる場所を発見できた。勝と龍馬を結ぶ線の上に可能性としての近代国家日本国があり、それがとりあえずの形を結ぶのが、翌年から翌々年にかけての神戸海軍操練所だったということなのだろう。




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