龍馬と脱藩 ~潰された可能性~ |
行き所の無いのは龍馬たち土佐系の、正真正銘の脱藩人である。彼らは曲折の後薩摩の庇護下に入った。これは幕府の薩長というこれから展開する対抗関係の、薩長側についたことを意味する。 海舟のもとにいた時は、そうではなかった。海舟のもとにいたとき龍馬は、土佐に戻って断獄された仲間たちとともに、また脱藩して長州へ走った仲間たちとも違う次元に立っていた。土佐に戻った者は勿論、長州へ行った脱藩者たちでも、他藩に身を寄せたわけで、藩という枠から脱しきったのではない。それに対して龍馬のところでは、藩をも幕府をも超える場が開きかけていたのである。そこに龍馬と海舟の結びつきの意味があった。 海舟は幕府側に引き戻されることに甘んじて、この可能性を潰してしまった。龍馬も、つり合い上、藩側に戻る他はない。しかし土佐には牢獄が待っており、長州は元治元年後半から慶応元年初頭にかけて内訌中だということになれば、薩摩に頼るしか手がなかったともいえる。だがそれは、経過が随分異なるにせよ、長州に身柄を預けていた中岡慎太郎らと同次元の存在となったことを意味した。
だが、それにもかかわらず、脱藩という見地から龍馬を見ていくと、海舟塾と神戸海軍操練所の時代がピークだったと思われてしまう。その時分では、藩を越え、幕府を超えるだけではなく、ヨーロッパ近代型の日本国をも超える可能性もあったかもしれない。ヨーロッパの圧力に抗するための東アジア三国連合と、その「共有の海局」という構想である。明治維新によって出来上がった日本国は、残念ながらそれよりも小さい。それは維新政府政権成立後から始まる朝鮮との国のランク付けをめぐる紛争一つをとっても明らかであろう。 さらに龍馬が維新成立の直前に斬殺されたことは、近代国家日本の可能性を著しく狭めたといえるかもしれない。だが問題の焦点はそこではなく、元治元年の時点で朝鮮や清朝中国と連携同盟するという着想がつぶれていることが、より大きく方向を決めてしまった。潰したのは幕府だが、潰されることに甘んじて亡命的突出をしなかった海舟は、少なくとも思想的には、その責任を負わなくてはならない。
しかし、龍馬の脱藩という見地からこの問題を見直していくと、その海舟の発言には不満を覚える。元治元年の時点で、どうして海舟は徳川幕府を飛び出し、自分が暖めていた理念に忠実に生きられなかったのか。それをすれば龍馬の脱藩がその時に持っていた大きさをさらに飛躍させることが出来たかもしれないのだ。 それをやらなかったために、海舟の愛弟子の龍馬は、海舟が晩年にそのあり方を歎いた明治の日本国家、その国家を成立させることに力を貸してしまった。脱藩は脱国家に繋がらなかったのである。 |