龍馬と脱藩 ~脱藩赦免~ |
海舟は文久2年(1862)12月17日、幕府軍艦順動丸に老中小笠原長行を乗せて品川を出帆、21日大阪湾に入った。この時龍馬も順動丸に乗ったと断片的に説くものが多いが、確実な根拠がない。翌文久3年の正月3日、海舟が龍馬に託して京都へ意見書を送ったことは、よく知られている。また龍馬は正月8日土佐人数名を海舟に入門させた。 大坂湾一帯の警備状況視察を終えた海舟は、次の任務が待っている江戸へ帰るため、正月10日出帆し、15日下田港に入ると、上京途中の土佐の隠居山内容堂が、やはり寄港していた。そこで海舟は、容堂に直談判に及び、龍馬の脱藩の罪を免除してくれるよう要請する。容堂は内諾を与え、その保証として扇にひょうたんの絵を描いた。これが効いて龍馬は2月25日付で、叱りおくだけで済ませるという赦免の通告を得る。 赦免の通告を龍馬は、京都の土佐藩邸で受けたらしい。それに先立つ数日を、藩邸で謹慎させられたという記録もある。なので、正月に順動丸で海舟とともに江戸へ行ったとすると、1月末から2月にかけてのどこかで龍馬は京都へ戻らなければならないのだが、これはなかなか難しい。龍馬は2月の間は京都で過ごし、25日に脱藩の赦免を受ける。海舟の方は10日江戸着、24日江戸発、26日大坂着。海舟はこの後しばらく上方滞在を続ける。
江戸で大久保一翁にあった龍馬は、海舟留守宅からのことづかりものなどを持って順動丸に乗り、4月9日大坂に着いた。復路が順動丸であったのは間違いがない。龍馬が海舟抜きで幕府の軍艦に乗れたのは、脱藩の罪を許されていたからであろう。土佐藩から承認されて軍艦奉行勝海舟の門人になっているのであれば、幕府の軍艦に乗ることに障害はない。このあたりに、海舟が容堂に依頼した狙いがあったのだろうか。
海舟の神戸海軍操練所構想は、幕府に対する反逆という要素が強い。江戸の操練所が純粋な意味での幕府海軍であるのに対し、海舟が神戸に造ろうとしているのは、日本海軍なのである。幕府内部での議論では容易にできそうになかった日本海軍を、海舟は、将軍が京都に呼びつけられ、尊攘激派の圧力で身動きができなくなっている政治局面をうまく活用して、将軍に呑ませてしまったのである。海舟は、将軍家茂に対しては丁重な態度を取り続け、日記でも「英主」などとお世辞をいっぱいいうのだが、政治的には海舟は将軍を脅迫して、一大共有の海局設置許可をもぎ取ってしまった。共有とは、幕府と諸藩の共有であるが、可能性としてそれを超え、新しく生まれる日本国の共有というところまで進む筈だった。 海舟にはさらに大きく、神戸の海軍を足掛かりとして日本と朝鮮と中国の連合を図る企てがあった。ヨーロッパがアジア全体にかけてきている理不尽な圧力を跳ね返すためには、とりあえず東アジアの3国が連携しなければならない。まずは神戸の海軍をその連携の絆として使おうというのだった。つまり神戸の海軍は、アジア共有の海軍でもある。ヨーロッパ諸国の圧力に抗するための東アジア連合、その共有の海局ということになれば、ヨーロッパ近代型の国家を更に超える可能性がはらまれる。ヨーロッパの近代とは異なるアジア独自の近代という問題である。海舟はこのとき、確かにその問題を提起していた。 龍馬にも、海舟の構想は理解できていたに違いない。終始、片腕として働いているのだから、そうしてそれが理解できていれば、仮に一時的に脱藩の罪を免ぜられてはしても、龍馬は本質的に脱藩人である。藩を超えているだけではなく、可能性として国をも更に超えている。 |