ドキュメント坂本龍馬
~薩長同盟成立~
 


 「ユニオン号」購入
寺田屋を拠点として京都へ出入りしていた龍馬は、9月24日に西郷とともに大坂へ下った。中岡はすでに情勢を報告するために下関へ戻り、次いで大宰府で公家たちの応接掛に任じられることとなる。
海路を鹿児島へ向かう西郷に同行した龍馬は、29日に上関で下船すると山口へ向かった。ここで長州藩士の広沢兵助と面談した龍馬は、たとえ長州再征の勅命が下されても、薩摩藩が出兵しないことを告げた。大久保一蔵(利通)が薩摩の藩論として、帰国する西郷に託した手紙に「非義の勅」、つまり理不尽な勅命には従わないと決したことを、長州藩に明示したのである。
また、このとき龍馬は上京する薩摩藩兵の兵糧米が不足していることから、それを長州藩より提供するよう依頼すると、これを長州藩は了解した。さらに、鹿児島から長崎に出て、亀山の地で「社中」を設立していた同志たちにより、桂小五郎が条件としていた薩摩藩による軍艦の購入も進められていた。そして、10月18日には中古の英国製木造艦・ユニオン号の引き渡しを受け、翌日には鹿児島へ回航されることになる。また長州藩が密輸しようとしていた小銃も、社中の周旋により8月下旬には薩摩藩船によって長州に運び込まれており、事実上の両藩の和解が成立していた。あとは薩摩藩からの正使が、長州を訪れればすべてが解決するはずだった。
 薩長双方の思惑
慶応元年11月中旬、大坂へ戻った龍馬は、再び下関へ向かった。桂小五郎を京都へ連れ出し、薩摩藩と正式に和解させなければならない。下関に到着したのは、12月3日の事だった。
これに先立つ11月9日、長崎で大砲三門を積んで武装したユニオン号は、車中の操船によって下関に入港していた。しかし、その運用について、長州藩軍監局との間でトラブルを起こしてしまった。長州再征戦の開戦が目前には迫っていなかったこともあり、社中側が自分に有利な条約を結ぼうとしていたためである。下関に到着した龍馬は、この問題に巻き込まれてしまう。長州藩との話し合いを重ねるなか、京都から薩摩藩士の黒田了介(清隆)が下関を訪れ、12月28日に桂とともに京都へ向かった。
ユニオン号問題を解決した龍馬が、護衛役の長府藩士・三吉慎蔵とともに下関を出立したのは、年が明けた慶応2年(1866)1月10日のことである。16日に神戸へ上陸した龍馬と三吉は、幕府の警戒網をかいくぐって19日に伏見の寺田屋に入り、翌20日には桂の待つ二本松の薩摩藩邸へと向かう。どちらも望むことであり、既に薩長和解は成立しているはずだった。しかし、その夜、桂と会った龍馬は、事態が進展していないことを知る。
1月8日に薩摩藩邸へ入った桂は、以後、西郷吉之助や小松帯刀と面談していたが、一向に薩摩側が和解について切り出さない。そのため、桂は和解を断念して帰国の意思を固め、事実薩摩藩側でも20日の夜には桂の送別会を予定していたようである。桂は21日に帰国の途に就くつもりでいたのである。
 薩長和解成る
桂にしてみれば、四面楚歌の長州藩が薩摩藩に頭を下げることは、憐みを乞うことであり、それは藩としても武士としてもできることではないのである。しかし、薩摩藩にしてみれば、困っている長州藩が頭を下げるのは当然であり、頼まれてもいないのに手を差し伸べる必要はない。そのため、席を設けてお膳立ては整えるが、自分からは和解を切り出さないのだ。
龍馬は桂を責めず、西郷と小松に桂の心中を説いた。西郷らは桂に帰国の延期を申し入れ、翌21日、和解についての会談を行った。後日、桂はその内容を六カ条にまとめ、同席していた龍馬に確認を求め、龍馬はそれに間違いがないことを認めている。
六カ条は、長州再征戦を前提としたもので、第一条で薩摩藩が傍観者とならないこと、第二条から第五条までは再征戦での勝利・敗北・不戦の場合を想定し、それぞれに対する薩摩藩の対応を定め、そのいかなる場合においても、薩摩藩が長州藩の「冤罪」に対して「尽力」することを謳う。長州藩は文久3年の政変で京都を追われたことを、公武合体派による「冤罪」ととらえていた。その無実の罪を晴らすために、薩摩藩が尽力することを求めた。そして、冤罪が解消された暁には、両藩で国家の為に尽くす事を誓うという内容である。
この6カ条が「薩長同盟」と称されるのだが、「同盟」という言葉から連想されるような、軍事同盟のようなものではなかった。軍事同盟であるならば、長州再征戦が勃発したときに、薩摩藩は長州藩に味方して、幕府軍と戦わねばならないが、そのような要求は何もない。
これが、いわゆる「薩長同盟」の実態なのである。




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