龍馬の人間像変遷
~坂崎紫瀾~
 


 坂崎柴瀾
龍馬を主人公とした本格的な小説は坂崎柴瀾が書いた「天下無双人傑汗血千里駒」が最初とされている。この小説は明治16年「土陽新聞」史上に連載された。現在は明治文学全集の「明治政治小説集(一)」に収められているが、この巻の解説を書いた柳田泉によると、この明治初期の政治小説というのは、その発生の人為的な点において、東洋、日本の文学史は勿論、西洋の文学史にもほとんど類のない特色を帯びているという。「政治を一つの善の理想と見、それを進めるのを自由民権を拡張することと積極的に教え込むのを目的とした、一種の理想小説であった」というのである。
坂崎柴瀾も土佐の人で、維新の論功行賞で信州松本地方の判事になった。しかし民権論が起こると民権論の弁士となり、自由民権思想の普及に努める。その後、土佐へ帰り、「土陽新聞」を拠り所にして活動した。アメリカ革命、フランス革命など自由民権に関することなら何でも歌に取り入れた民権盆踊り、さらに民権道化馬囃一座を組織し、自らも座頭として馬鹿林鈍翁と名乗ったというから、洒脱な性質の人である。論説もユーモアを利かしたものを書き、「概していって維新の見聞に傾き、土佐先輩の功業を顕彰する方に回った。維新物の代表が「汗血千里駒」で坂本龍馬伝の小説化である。」(柳田泉)
 「汗血千里駒」
「汗血千里駒」の導入部は、上士と郷士との井口村での刃傷事件に始まっている。「当時我が土佐国士格以下の輩はよしや其智勇弁力間ま一器量ある者とても、因襲の久しき累代封建制度の為めに奴隷の如く圧しつけられ、更に其頭を出すの機会無きを恨み居しも、キチウ前後の頃より或は文武修業の為江戸に在りて広く他国の有志に交り、或は尊皇攘夷の論に耳を傾くるあり、彼につけ此によりて誘ひ起こされし天賦同等の感想に胸の炎を焦がしつつ、其門閥を憎み階級を軽んずるの勢已に成れる折柄なれば・・・」
リズム感のあるなかなかの名調子である。天賦同等などの言葉を交え、横行横議して志士に成長していく郷士群像のなかから、龍馬が描き出されてゆく。剣術青年である初期龍馬が江戸から土佐へ帰る途中、鳴門の沖で英国の汽船を見て驚嘆、この海峡の前には、小船による切込みなどは児戯に等しく、早く日本にも航海の学問開けよと、これが龍馬をして航海術を志すはじめとしている。したがって中期龍馬の結節点である勝海舟への入門は、勝を殺すつもりの逆転劇ではなく、小千葉の紹介ですんなり勝門下になっている。神戸の海軍操練所塾頭時代について、「当時龍馬は大に見る所ありて、深くも其の乾坤を斡旋するの心事を胸中に韜晦しつつ、手を袖にし暫く修羅の活劇場を傍観して在ければ、或は龍馬は其徳を二三にするの賤丈夫なりと嘲り卑しむ者も多かりしが、・・・更に之を意とする事無くして、尚ほ勝氏の食客たるを甘んじ、悠然として居たりける。嗚呼時務を知るは俊傑に在りと。」またこの時務には世界の海援隊への抱負が秘められていた。
薩長連合については、「龍馬其人の与って力あるの偉功は、之を青史の上に大書特書なすともはずる色なかるべきなり」として、龍馬が天空海闊の大見識を奮って、西郷、大久保、桂、高杉らを説得している姿を描き出しているが、寺田屋騒動、おりょうとの新婚生活にも多くの頁をさき、豪傑、大勇者のイメージに花を添えている。
 草莽の士坂本龍馬
しかし柴瀾が後期龍馬の思想の結晶物である、船中八策にふれていないのはどういうことなのだろうか。山内容堂の徳川慶喜宛建白書の別紙に出てくるだけであり、面白いのは二条城での大政奉還の討議の場に坂本龍馬が登場し、「朝幕公武の小差別なく、唯此お日本国の安危のみを御覧ぜられて、大政返上を思し立られたまひかしかと愚察仕りて候へ。此上は片時も早く・・・」とこの討議を決定づけていく役割を果たしていることである。
この本の終わりの部分で後藤象二郎をクローズアップさせているのも特色だが、海援隊の書記であった長岡謙吉が明治3年につくった諭策「迂言七道」を紹介して、維新直後の状況を知らせてもいる。
龍馬の兄権平の家督を継いだ後継者が立志社員として四方に遊説。「人民卑屈の瞑夢を喝破するに熱心」なのは叔父龍馬その人の典型が遺伝したもののようだと結んでいるが、龍馬自身に内在して、その思想像を明らかにする側面が弱いのは民権講談の限界というべきか。明治16年時点での資料的制約もあったろうが、しかし汗血千里駒とは、横行横議横結していった草莽の士坂本龍馬を見事に象徴している題名である。




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