ドキュメント坂本龍馬 ~おりょうと婚約~ |
同志と再会した龍馬だったが、間もなく薩摩藩の依頼により、下関へ出立する。文久3年の政変と禁門の変により、完全に敵対関係となった長州藩との和解の道を探るためだった。両藩が和解して手を握り合えば、幕府に対抗する雄藩連合の一端ができあがる。龍馬にとっても、勝海舟を罷免し、操練所の閉鎖を決めた幕府は敵同然であり、池田屋事件と禁門の変では新撰組などにより、同志が殺されている。和解が成功すればその仇が討てる上に、大政奉還への道が開ける。薩摩藩の申し入れを断る理由はない。 5月16日に鹿児島を出立した龍馬は、まず太宰府に立ち寄り、文久3年の政変で京都を追われた公家たちに謁した。その公家の一人である東久世道トミが、龍馬を「偉人なり、奇説家なり」と評したのはこのときのことである。 偉人とは薩長和解の使者となったこと。奇説家とは、大政奉還論者である事を指している。また、大宰府では公家たちに随行していた長州藩士の小田村素太郎と面談し、長州入国の斡旋を受け、翌閏5月1日に下関へ入った。
薩長両藩のトップクラスの面談が実現すれば、即時に和解は成立する。少なくとも、その糸口になるはずだった。 龍馬と土方は、小田村からの報を受けて山口から下関にやって来た桂と6日に面談し、西郷の寄港計画を伝え、その後土方は京都の情報を伝えるため太宰府へ向かい、龍馬は中岡の到着を待った。 その中岡が下関に姿を見せたのは、21日の夜ののことであった。ところが、肝心の西郷がいない。中岡によると、西郷は桂との面談には同意したが、佐賀関に寄港した18日に京都からの急信を受け、そのまま上京してしまった。 桂は怒った。席を蹴って立ち去ろうとする桂に、龍馬と中岡は必死に謝った。ここで和解を断念するわけにはいかない。すると、桂は西郷の違約に対して、薩摩藩が使者を派遣して正式に和解を申し込むこと、薩摩藩名義で長州藩の為に軍艦を購入する事など、二点の謝罪条件を示した。 禁門の変により長州藩は朝敵とされており、前年11月には長州征伐の幕府軍の前に降伏していた。一度は屈した長州藩を再び幕府へ対立姿勢をとらせたのは、高杉晋作らであった。高杉は反政府軍と戦って勝利し、藩政を「武備恭順」という幕府への対立姿勢を崩さないものへと導いていた。 また、幕府側にも長州藩への処分が寛大に過ぎるということで、長州再征論が高まっており、5月には将軍・徳川家茂が親征のため江戸をたち、21日に京都に入ると、26日には大坂城へ入ることになる。 再征戦が目の前に迫っていたが、朝敵となった長州藩は、外国との密貿易は行っていたが、流石に軍艦を購入することはできなかったのだ。 29日、龍馬と中岡は下関を出立した。2人は6月下旬に京都へ入り、西郷ら薩摩藩士と会談を重ねたと思われるが、それらの記録は伝えられていない。
龍馬がおりょうと出会ったのは、前年5月の事だったようだ。おりょうの父親は楢崎将作といい、京都柳馬場通り三条で内科医を営んでいたが、安政の大獄で投獄され、赦免後の文久2年7月に病死した。そのため一家は没落し、長女のおりょうは京都の七条新地にある「扇岩」という旅籠で仲居をしながら、一家を支えていたという。 龍馬が初めておりょうに出会ったのは、その扇岩の事だったのだろうか、おりょうに一目ぼれしたようだ。 龍馬はおりょうの母親貞が留守居として住み込んでいる方広寺に出向き、一家の面倒を見るという約束で結婚話を持ち掛け、二人の婚約が調った。 とはいえ、龍馬は当時海軍宿の塾生に過ぎず、京都に住む家もない。8月に内祝言をあげたというが、おりょうはそのまま扇岩で仲居を続けていた。 龍馬に寺田屋を紹介したのは薩摩藩で、女将のお登勢との信頼関係が築かれていたためであった。そして、お登勢とであった龍馬も信頼に足る人物であることを知り、おりょうを扇岩から引き取って託したのだった。 おりょうは寺田屋では「お春」と名乗り、お登勢の養女分として、実の娘の力とともに宿を手伝っており、これが2年後の1月に龍馬の危機を救うことになる。 |