龍馬の人間像変遷
~龍馬の33年間~
 


 龍馬の人生を四つに大別
龍馬の33年間という短い生涯、だがその龍馬の1年は、平時の百年に匹敵する中身を備えていた生涯を、池田敬正は四つの時期に分けている。
第一の時代は、龍馬が町人郷士の子として封建武士に成長する時代。第二の時代は尊皇攘夷の志士として活躍する「短い刀」の時代、第三の時代は「ピストル」が象徴する時代衛、近代航海術の修業時代、第四の時代は日本の新しい国家体制を構想する政治思想を大成させた時代としている。
日本研究家のジャンセンは、龍馬が「西洋問題の重要さに目覚めていった過程」を四つに分けている。第一期はペリー艦隊の来航に始まり、井伊直弼のハリス通商条約調印に至る時期で、武士たちは兵家の本文に戻り、各藩とも剣術が奨励された。第二期は井伊直弼暗殺事件に始まる過激・激情主義の時代、危機が剣士を志士にした時代である。第三期は外国人を不足で駆逐するのは不可能だという発見によって理性が感情に取って代わる時代、龍馬にとっては勝海舟を訪ねた夜がその転回点であり、志士が政治家に成長していく時代である。次の第四期は対外的な観点から幕府転覆に集中された時期としている。
 三区分で分ける龍馬の人生
龍馬のイメージの変遷で追う場合だと、以下の三区分で分けるのが適当かもしれない。
まず初期龍馬、つまり龍馬が剣術青年から政治青年へ、江戸の剣術道場自体がそのるつぼで、彼が志士となる時期である。
次いで中期龍馬は、勝海舟門下で技術者としての習練を通じ、西洋文明の精髄に眼を見開かれていった時期である。
後期龍馬は、勝の江戸召喚によって、一身で独立独歩、亀山社中を創業。亀山社中のちの海援隊の内外貿易、海運業務、航海学校、私設海軍、討幕結社と五つの顔を持った組織のリーダーとして、経営の視座を身につけ、日本国の経営の構想を練り、連合のオルガナイザーとして戦略戦術の展開を図って、業半ばにして倒れるまでの時期である。
日本の資本主義は、市民社会の媒介なしに政商資本主義として成立し、その政商的体質は今日まで及んでいる。しかし、龍馬の行動様式には下からの資本主義、市民社会への指向が強く窺われ、言葉の正しい意味での「経営」の視座なしには、後期龍馬の理解を欠き、従って総合的な龍馬像の構築に歪みを与えることになってしまう。浪士による北海道開拓団の発想は、この経営の視座の代表例であり、被治者の立場、それもいつ殺されるかわからぬ人間の側から治者の哲学を展開させたのは、龍馬に経営の視座があればこそであろう。
明治以後、龍馬のイメージが時代・時代の状況と関連してクローズアップされてくるが、いずれも部分像に止まり、その部分像が入れ代わり、立ち代り登場してくる感が深い。戦後の山岡壮八の書いた「坂本龍馬」も初期龍馬だけで終わっており、また、日露の国交断絶の際、昭憲皇太后の夢に現れる龍馬のイメージは、日本海軍の創業者としての側面のみである。また、戦前の日本映画に登場する龍馬は勤王の志士として、初期龍馬が後期龍馬まで一気に突っ走る単線型のものが多い。
 坂本龍馬の総合的人物像
ジャンセンは、「前将軍の受け入れるところとなった建白の提唱者、海援隊の隊長、褒貶あいなかばする中に謎のまとめ役として重きをなす人物、そういう坂本龍馬が、かつて1862年に土佐藩を脱走した勤王青年郷士と、既に全く別の存在である事は、あたかも四民平等、官吏公選等の主張を含む「藩論」が、初期の頃に郷里の土佐へ書き送った手紙類と全く選を異にしているのと同様である」と述べ、初期、中期、後期龍馬のそれぞれの特質を押さえることなくして、総合的な龍馬像は構成されないだろうとしている。
既に21世紀になった現代に生きる日本人の過半数に、坂本龍馬の総合的なイメージを強く焼き付けたのは、何といっても司馬遼太郎の長編小説「龍馬がゆく」であり、その司馬の原作をドラマ化したNHK大河ドラマであろう。
そして重要なことは、太平洋戦争の敗戦、開国を経た戦後史の歩みの中でこそ、初めて坂本龍馬の思想像を核とする人間像の総合的な統一が図られたという点である。「英将秘訣」にある「龍馬語録」として伝えられるものの一つである、「世に活物たるもの皆衆生なれば、いづれを上下とも定め難し。今世の活物にては、唯だ、我れを以て最上とすべし。されば天皇を志すべし」という言葉を取っても、戦前の天皇制のもとでは到底市民権を得られる言葉ではない。こういう龍馬語録が確実に龍馬の手になったものかどうかは疑わしいとされているが、明治維新以来、大正初期までの間に形成された龍馬のイメージを伝えるものとして、やはり貴重なものである。




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