龍馬と脱藩 ~藩も幕府も超えた日本を~ |
勝は、龍馬ら土佐出身の塾生の為、召喚延期の交渉をした。修業途中であり、また幕府軍艦順動丸の乗組手伝をやらせているところでもあるので、もう少し続けさせてほしい、というのである。これは文久3年12月6日付で江戸詰の土佐藩目付宛に書かれている。しかし土佐藩江戸屋敷はこの勝の要請を拒否した。国許からの命令だから、江戸屋敷ではどうにも取り計らえない、ともかく一度帰らせてくれ、と返事した。 龍馬は帰らない。そこでまたも脱藩ということになる。今度は初回とは違い、藩命に抗しての脱藩である。しかし勝は、再び脱藩の身となった龍馬を、今度は以前にもまして大っぴらに使っている。勝にしてみれば、容堂への直談判で脱藩罪を赦免させ、身柄を預かったのだから、容堂からの直々の挨拶でも来ない限り、手元に置き続けるくらいの無理は通してもよかった。このあたりは政局がらみの力関係である。龍馬にとって藩を超えた場は、固定的なものではなく、流動していた。 勝は文久3年の暮れから、翌元治元年の正月にかけて、海路上京する将軍家茂の供をした。幕府軍艦と諸藩の船からなる連合艦隊を率いていく。この時龍馬は、軍艦奉行並勝海舟の私塾塾頭という資格で、幕府軍監に手伝いとして乗組んだことに、ほぼ間違いないようだ。 次いで元治元年2月、勝は長崎出張を命じられる。用件は二つあって、一つはフランスの軍艦が下関へ報復攻撃をかけるという噂があるのでそれを阻止すること。もう一つは状況を見て対馬に渡り、朝鮮の様子を探れというものだった。
横井小楠は、熊本郊外の城から東へ二里の沼山津に閉居していた。前年の12月に肥後藩から士藉剥奪の処分を受けており、細川家の家臣団からは離脱させられた。いわゆる「脱藩」的な身分の小楠のところへ、脱藩人龍馬が、幕府高官の意を受けて見舞いに行くというのは滑稽だが、肥後藩がそれを承知していることも更に面白い。勝は豊後路に入った時からずっと肥後藩の賓客であり、熊本でも本陣に泊められて藩侯から贈物が届く。裏返せば監視下にあるのだが、龍馬が小楠の所に行くのを阻止する力は、どこからも働かない。それどころか龍馬が勝について長崎に入った後の小楠と勝との連絡は、肥後藩士によって保たれるのである。こういう柔構造に支えられ、勝と龍馬と小楠を結ぶ線上に、幕府や藩を超えた世界が開けかかる。小楠は著述「海軍問答書」によって、勝の「共有の海局」構想に理論的な支援を与えた。 勝の長崎での仕事は、中途半端なものに終わった。下関攻撃計画については、長崎での談判では決着が付かず、交渉の本舞台はむしろ、横浜と江戸である。また、対馬へ渡る件については、京都から中止命令が来た。勝は4月4日長崎を発って帰路につく。 復路は往路をそのまま逆に辿った。歩いて島原に出て、島原湾を熊本へ渡る。また龍馬が沼山津へ使者に立ち、小楠の甥たちを預かってきた。神戸の操練所へ入れるためである。阿蘇、久住を経て豊後から船に乗り、神戸に着いたのが4月12日だった。 神戸海軍操練所の正式発足は、元治元年5月である。まず勝が軍艦奉行並の並がとれて正規の軍艦奉行に昇進し、安房守を名乗る。次いで勝を責任者とする神戸操練所の訓練生募集が布告された。関西住居の旗本御家人やその子弟厄介はもちろん、西国筋の「諸家家来に至る迄」有志の者はやって来て修業せよ、というのである。 これによって既に神戸の勝の塾に来ていた薩摩藩士など諸藩士すなわち「諸家家来」は、新発足の操練所に移った。問題は「諸家家来」ではない龍馬のような脱藩人や、小楠の甥たちのように「士藉」の無い連中をどうするかである。勝の力をもってしても、幕府にも藩にも関係ない者たちまで募集人の枠を広げることはできなかった。これは文久3年から元治元年にかけての政局が、次第に勝らにとって不利な方向に向かっていたことも関係するであろう。
ただし、これは「脱幕府人」ともいうべき勝が、たまたま軍艦奉行をつとめ、神戸海軍操練所という型破りの機関を主宰していればこそ効いた無理である。勝の我儘を幕府が許さないとすれば、神戸を中心とする自由な空間は、消えうせてしまうであろう。 神戸海軍操練所設立は、尊攘派全盛期で将軍が激派に痛めつけられている政局を勝が利用して許可を取り付けたものであった。なので、激派が強い間は色んな手が打てるのだ。しかし元治元年7月の禁門の変で長州系尊攘激派が壊滅し、自身を得た幕府が反動化を強めると、勝の立場はたちまち危うくなった。神戸は幕府がその気になって探索すれば、反逆者たちの巣窟でもあるのだ。 やがて10月22日、神戸にいる勝のもとへ江戸からの召喚通告が届いた。勝は独り早駕籠で江戸へ帰るのだが、下手をすると切腹させられかねない状態であった。勝はこのとき脱藩してもよかったのかもしれない。「徳川藩」と日本政府という両面を持つ幕府が、徳川藩的要素を強めて「共有の海局」を弾圧しているのだから、勝は徳川から「日本」の方へ脱出する好機でもあった。 しかし、勝はやはり幕府の高官である。その庇護下にあってこその日本的空間ができていたのである。その条件を失ってどうやって自由の場を守れるか。現実の問題としては、勝が真っ先に亡命先を探さねばならない。軍艦を奪って上海にでも逃げ、そこへ亡命政権を作る他なかったであろう。多分の無理な話だ。 それでも、もしやってみたらという空想はあろう。幕府とも薩長とも違う「日本」というものが、本当に見えたかもしれない。龍馬たち土佐脱藩人たちの資質も、より大きく伸びる条件を持ちえたかもしれない。 しかし勝はそれをしなかった。彼は体制内部でギリギリのところまで我を貫くけれども、大勢の枠を踏み破ることは遂にやらない。西郷隆盛をつかまえて、幕府はもうだめなのだよ、と教えるけれども、そのダメな幕府から飛び出してはいないのである。勝が「脱藩」せず、後で戊辰戦争の際旧幕府側代表として表舞台に出てくることは、明治維新、ひいては日本近代の本質にかかわりのある深刻な問題だったのである。 |