淀殿
慶長19年(1614)12月15日  
「和睦じゃ、和睦じゃ!」
(大坂冬の陣い)

   豊臣家滅亡は既定路線であったか?
豊臣秀吉の側室であった淀殿は、ご存じのとおり嫡男秀頼を産み、秀吉死後は後継者たる秀頼の母として、大坂城に君臨します。関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、それにより天下人たる豊臣家に天下(日本全体)の政治を担うべき人材が家康の他にいなくなり、家康が事実上の天下人として、天下の政治を担うことになります。
慶長8年(1603)の家康の征夷大将軍就任は、実質的な天下の政治を担っているのは家康であるため、家康に今後の日本の行く末を任せた、という朝廷の意思表示と言えなくもありません。私が思うのは、家康が征夷大将軍就任したことは、いわゆる実質的な政権運営を任せたということであり、最高権威者としての豊臣家を否定しうるものでは、必ずしもなかったという点です。

最近では、豊臣家と徳川家のいわゆる「二重公儀」が存在していたという意見が優勢ですが、私も同感です。実質的政権担当者と最高権威者という使い分けで今後の天下(日本)を担う。後年の大坂の陣で豊臣家が滅亡したため、いかにも征夷大将軍就任が豊臣家を抹殺し、徳川家の天下独り勝ちを最初から目論んでいたとされますが、あくまで結果的にそうなったからそう思えるということに過ぎず、慶長8年の時点ではそんなことは考えられなかったでしょう。徳川家にしても、当面は関東を中心とした東日本を盤石にすることと、それと並行して西国の支配を円滑に進ませたい、そのために豊臣家をつぶすなんて言う強引な策はとれるはずもありません。西国の大名の多くは徳川に心の底からは従っておらず、むしろ「徳川は俺らと同格の大名だ」という認識が強かったのではないでしょうか。関ヶ原終戦後に、島津でさえ攻め滅ぼさず、和睦で済ませた徳川です。そんな状況下で、豊臣家を滅ぼすためにどうすべきかを考え続けた・・・というのは、私は違うと思います。

多少なりとも二重公儀の平行から徐々に徳川家が上に立つことを考え出したのは、二代将軍秀忠に譲ってからさらに数年先の、いわゆる二条城での秀吉と家康の会見からではなかったでしょうか。このとき、秀頼は上座にいる家康に拝謁するといった体で対面しています。これは、家康としても「天下人が完全に豊臣から徳川に交代した」ということを、あくまでも平和裏にすすめようとした一連の動きではなかったかと思います。幕府ができて8年、東国の支配もかなり盤石となり、西国大名も天下普請などで徳川に事実上従属したという状況において、形の上では公儀であったにせよ、実質わずか65万石の大名になっていた豊臣家も、さすがにその状況で「いまだ豊臣の天下じゃ!」などとは思っていなかったでしょう。リアリストが多い戦国武将たちが、そんな状況認識を「夢よもう一度」的な誇大妄想で誤らせることは、いかに人材が払底した(とされる)豊臣家でさえもあり得なかったと思います。
この二条城の会見を持って、一応天下人交代が終結した、という認識で多くの当時の識者は思っていたことでしょう。この会見はこれより約25年前に、家康が秀吉に大坂城で臣従した事と同じようなものであったと思います。
    淀殿はヒステリーだった? 
上記の二条城会見の際に、淀殿が「秀頼が殺される!」と強硬に会見に反対したといわれています。
これは、単純に大坂城を出たことのない秀頼がよその場所に行って何をされるかわからないという恐怖心と、いまだ淀殿が豊臣家の天下を信じ、家康に屈服した形を取りたくないという自尊心の二つがあったということから言われているエピソードです。

淀殿はプライドが高く、それが故にヒステリーな部分が強かったといわれていますが、これこそまさに勝てば官軍的発想で、勝利した徳川方が、滅ぼした豊臣方を悪く言う典型ではないでしょうか?死人に口なし、大坂城とともに滅んだ淀殿を一方的に悪くする徳川方の思惑で、淀殿は永遠にその名誉を回復することがかないません。
淀殿は、その人生において3度の落城を経験します。最初は父浅井長政の滅亡を近江小谷城で、二度目は義父柴田勝家と母お市の滅亡を越前府中城で。そして三度目が大坂落城なのですが、幼いころ2度も落城を経験している淀殿は、凄惨な戦禍を目の当たりにしているのです。つまり、平和な時代のそこらへんの怒りっぽい女性なんかとはメンタリティーがまるで違います。
父と母と義父を少女時代に失い、いつの間にかその落城させた憎い(はずの)秀吉の側室にさせられた。ひたすら受け身で耐える人生だったような感さえあります。(むしろ、秀吉の正室北政所のほうがヒステリーな部分があるように見えますが、それは別の場所で)

淀殿は、こうした己の人生を達観して見ざるを得なかったのではないでしょうか?秀吉が死に、天下の趨勢が大きく変わる頃、男たちが勝手に戦争をし、結果豊臣家内部に政権運営をきちんと行うものが激減し、家康に委ねざるを得なくなったため、天下人が家康になったということも、「ケセラセラ」ではないですが、淀殿はそれもやむなし、くらいな気持ちでいたのではないか?いや、そう思わざるを得なかったはずです。男たちの勝手な権力争いに、もはやうんざりしていた感さえあります。

実際の淀殿は仏教の信仰が厚く、ひたすらこの世の平和、豊臣家の安泰を祈る日々だったと思われます。秀吉死後も落飾もせず(というか後継者の母として許されなかったのでは)、後継者の母として君臨するよう、男たちに仕向けられ、それを演じつつも心の中は冷めていた淀殿、私はそんな彼女の姿を想像していますが、果たして・・・。
     やはり女性だった瞬間 
さて、大坂の陣に至った理由はあまり詳細はここでは書きませんが、冬の陣までは少なくとも豊臣家を滅ぼすというより、むしり平和裏に屈服させることがかなわず、一定の軍事行動において和睦して、できれば大坂から豊臣家を切り離し、一大名として支配下に置く、ということが目的だったと推察します。
この時期、キリシタンを禁止し、これまで活発だった主として西国での海外交易の制限にも繋がり、それが故に不満を持った南蛮諸国とそれに同調しかねない牢人や一部の勢力(伊達政宗か?)をけん制する狙いもあったと思います。つまり、それらの勢力が大坂の豊臣家を利用し、くっつけば一大勢力になりかねない。大坂にこもる豊臣家は危険な存在にならざるを得ないため、ここで大坂から切り離すために難癖(いわゆる方広寺の鐘事件)をつけ、聞き入れられなかったために軍事行動に出た。それに大坂方も見事に応じてしまった、ということでしょう。
大坂の陣、基本的には兵力で圧倒していた徳川方優位で進んでいきます。もちろん、大坂城は総濠を抱えた難攻不落の城。そう簡単に攻略などできません。緒戦で勝利を重ねた徳川方も、このまま持久戦になる前に和睦しようと目論んだことでしょう。
しかし、真田信繁(幸村)が有名な「真田丸」を大坂城南東側に構築し、そこで徳川の諸勢力に大打撃を与えます。これで戦局は膠着し、家康も焦ったことでしょう。徳川方は冬を迎え食糧や薪などが不足し、戦いを続行することが困難になりつつあります。
この戦局打開のため、家康は淀殿がいたとされる本丸に向けて大砲をぶっぱなします。淀殿に戦いを続けることの無意味さを教えるためというべきか、恐怖心を植え付けるためというべきか、本心は謎ですが、結果としてこれが幸いしました。

「和睦じゃ、和睦じゃ!」
大砲を放たれた本丸では多数の従女たちが戦死しました。この姿を見て、淀殿は戦うことの愚かさを実感したのかもしれません。
大坂方にやや傾いた戦況を、この淀殿の一言でいっきに「徳川方優勢な状態」での和睦に応じてしまうのです。
結果、大坂城の堀を産めることが条件にされてしまい、大坂城は事実上裸城になってしまいます。

和睦に応じたのは豊臣方であるのですから、豊臣家が降伏した形に近い。大坂城もかつての難攻不落ではなく、ただの裸城。豊臣家の権威はここに完全に地に落ちたのです。
この瞬間に、つまり淀殿が「和睦じゃ!」といった瞬間に、豊臣家の滅亡がほぼ決まったと言えましょう。
権威のない豊臣家に、もはや誰も何も感じません。家康はここでも豊臣家に大坂からの移転を条件につきつけましたが、豊臣家はこれに応じず再度戦いを挑みます。
家康はもはや権威が全くなくなった「豊臣を滅ぼす」ことに躊躇しません。この際、朝廷から家康へ「豊臣家との和睦の労を取りたい」と申し出があったそうですが、家康はこれすらも拒みます。この瞬間家康は豊臣家を滅ぼすと同時に、朝廷をも凌駕した絶対権力者になったのです。

平和をひたすら願った淀殿に、徹底して戦うことなどは無理だったのではないでしょうか?そんな淀殿が「お袋様」として大坂城に君臨する形を取らざるを得なかったことに、豊臣家と淀殿の悲劇があったと言わざるを得ません。淀殿は「女性らしい女性」だったと私は思います。



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