土方の生涯
 ~少年時代~
 


 土方歳三誕生
土方歳三は、天保6年(1835)5月5日、武州多摩郡石田村(東京都日野市)の農民の子として生まれた。父は隼人義諄、母は恵津といい、従来はその第六子とされていたが、実際には夭折した兄妹が存在しており、実際には第十子だったことが判明している。末っ子であった。父は土方が生まれる前に病没し、母も6歳の時に逝去している。父の亡き後、長兄の為次郎が盲目であったため、次兄の喜六が当主となり、隼人義厳を名乗った。12歳上の姉周も結核で天保9年に亡くなっており、土方にはこの姉の記憶が無い。
四歳年上の姉・のぶは、日野宿の宿場名主の佐藤彦五郎に嫁いだ。こののぶは、幼くして両親がいない土方を母親代わり同然に面倒をよく見たという。彼女自身もまだ母親を恋しく思い年ごろであったのにだ。土方もこの姉のいうことはよく聞いたといい、成人後、新撰組局長となってものぶには頭が上がらなかったという。
幕末の志士の中には、姉さん子が多いようである。坂本龍馬は土方と同い年であり、同じように家柄は比較的裕福。やはり姉の乙女には頭が上がらない。この点、立場こそ違いはあれ、同様な境遇に育ったという点が興味を引く。
 武士になる夢
両親のいない寂しさか、天性の気性なのか、土方の幼いころはいわゆる「悪ガキ」だったようだ。
土方家は近隣から「お大尽」と呼ばれるほど裕福な家で、使用人も常時何人もいた。この頃の豪農といえば、小さな大名を凌ぐほど豊かである。だから土方は飢えを知らない。腹いっぱいに食べることができた。生理的な飢えを知らないことは、彼の中に突拍子もない夢を育む手伝いをしたかもしれない。もし彼は、幼い日に食うや食わずの日々を過ごしていたならば、まずその小さな方に生活に重みがかかって、突拍子もない夢など育つ間がない。
200年以上続いた徳川幕府の勢威もさすがに陰りが見え始めた頃ではあったが、それでも身分制度は依然として存在しており、世襲制の武士身分になどなれようはずがない。だが、少年土方の旨には、そんな制度など越えて、夢が育つ。
「武士になるのだ」
いつから土方は、そんな突拍子もない夢を抱いたのだろう。盲目の長兄為二郎に、自分の夢を聞かせていたかもしれない。為二郎は多摩の気風そのままの質実剛健、豪放磊落の気性で、日頃から「俺の目が見えていたら、俺は畳の上では死なねえよ」と、言っていたという。
父子ほど年が離れた末弟の、そんな途方もない言葉を聞いてくれたのは、為二郎だけだったかもしれない。
「大人になったら武士になる」と言って、庭に矢竹を植える土方を激励したのは、この兄だけだったろう。もっともこの為二郎にしても、幼い子供の夢たわごとくらいの受け止め方でしかなかっただろうが・・・・。
 謎が多い少年期
11歳の頃、土方は丁稚奉公に出されたという。だが、最近では13歳の頃までは実家にいたことが判明しており、実際に丁稚奉公に出たのはそれ以降の事だとされている。
行先は江戸の「いとう呉服店」、現在の上野松坂屋デパートである。この時のエピソードで、土方は丁稚奉公から逃げ出し、あるいは女と関係を持ったことで店から追い出されたというものがあるが、実際には土方は二度奉公に出されており、23歳の頃まで続いたそうだ。(同ページを参照
奉公を終えた土方は、姉ののぶが嫁いでいる日野宿名主佐藤彦五郎家宅に通うようになった。ここもまた「お大尽」で、義兄の佐藤彦五郎は、土方より8歳上。数年後、自宅敷地内に剣術道場をひらく。土方の突拍子もない幼いころの夢の後押しをするかのようであるが・・・。
この頃、土方が、のちの新撰組副長を髣髴させるような、組織運営の才を見せた出来事がある。
土方家は捻挫、筋肉痛、関節痛に効用があるという「石田散薬」という家伝の薬を扱っていた。多摩川や浅川の河原に自生している牛革草が原料である。
この牛革草の刈り取りは毎年8月の土用の丑の日と決まっていて、村中総出で刈り取る。その手順の指揮を、土方少年が行った。各作業ごとに人員を組ませ、指示していく。それは、子供とは思えない的確さで、作業は驚くほど捗り、周囲の人々は「日頃悪さばかりしている歳もやるもんだ」と、目を見張ったという。




TOPページへ BACKします