人間・土方歳三研究 ~奉公伝説の謎~ |
当時、多摩地方は天領、大名領、旗本領、寺社領などが複雑に入り組んでおり、犯罪の取り締まりが徹底しなかった。警察権の行使が所領ごとの縦割りだったため、犯罪者が例えば天領から隣の大名領へ逃げてしまうと、管轄違いで逮捕できない事態が発生したのだ。また、浪人と称して村々の有力者に金銭を要求するものも増えだしたため、幕府は文政年間に関東取締出役の機能を強化し、機動的な犯罪者検挙に乗り出したが、人数は限られていたため、出役は博徒手先に用いたりもし、多摩地方では地域ごとに組合村が組織された。 土方が育った当たりでは、日野宿が中心となって、近隣の村々と共に組合村を結成した。そこでは地元有力者や豪農が宿場名主などの村役人に就いて、生命や財産を守るために自主防衛に乗り出した。これは公的な武装自警団であり、やがて農兵隊として組織化されてゆく。 土方の義兄である佐藤彦五郎は日野宿宿場名主として、組合村のリーダーとなった。彼自身も宿場で殺傷事件が発生したのを機に、自衛のための撃剣(剣術)の必要性を痛感し、天然理心流を学びはじめ、邸内に道場を建てることになる。 土方の石田村も、日野組合村に属していた。石田村では「土方」姓ばかりであり、それぞれ屋号で区別したという。土方の生家は「大尽」と呼ばれ、持高39石の豪農だった。多摩郡の大半の農民が3石弱であるから、そのレベルがイメージできるだろう。豪農はいわば農民の富裕層であり、豪農同士で婚姻を重ね、学問への造詣も深かった。
2度目の奉公明けのころ、「武人になり、名を天下にあげたい」と決意した土方は、17才でで天然理心流に入門する。その後は、日野宿・佐藤邸に入り浸り、あるときは家伝の石田散薬(打ち身・捻挫に効く飲み薬)を背負って行商に出かけ、その道中で他流試合を申し込むなどして剣術修行に明け暮れていたという。ここまでが通説の土方の二回奉公説である。 だが実は「二回奉公伝説」とは裏腹に、13歳から約10年間、土方は町家奉公を続けていたことが判明している。弘化4年(1847)から安政3年(1856)にかけてである。奉公先は、縁戚の四谷大木戸の商家と思われる。 その後、安政6年(1859)3月に天然理心流に入門。当時25歳であり、従来の17歳入門説より8年も遅い。また、「薬の行商の傍ら、剣術道具を持ち運び、各地で他流試合を行った」という伝承も確かなものとは言えない。何故なら、天然理心流では他流試合を禁止していたからである。
また、万延元年8月に刊行された関東の剣術者名簿「武術英名禄」に、まだ入門一年半の土方が「天然理心流 武州日野宿 土方歳蔵」と掲載されている。 これらの事実を踏まえて、土方の軌跡を追ってみると、13歳で奉公に出た土方は、23歳の頃に年季奉公を終えて石田村に戻る。この頃から佐藤道場に通い始め、25歳で天然理心流に正式入門する。入門動機も、武士へのあこがれもさることながら、義兄・佐藤によって日野組合村の自警団に駆り出されたのが現実の姿だったといえる。 またこの間に、土方の身辺もあわただしくなっている。天然理心流入門の半年後に兄の喜六が病死しており、喜六の長男の作助はまだ15歳。いずれ甥の世話を受けなくてはならなくなる土方は、身の振り方をどうするかを喫緊に決めないといけなくなった。 それでも土方は苦労を感じさせることもなく、万延元年からは谷保村(国立市)在住の縁戚・本田覚庵のもとに通い、書道を学びだす。文人としての素養を積んだことが、土方が発句に親しむ一因となったのであろう。 |