松下村塾 ~三つの村塾~ |
松下村塾は、天保13年(1842)松陰の叔父である玉木文之進が創めたものであり、松本村の本を下に置き換えた、すなわち松本村塾の意味である。杉家に同居して幼い松陰の師でもあった文之進が松本村新道にあった吉田家の空き家を借りて独立したのが3年前の天保10年(1839)のことであり、松陰自身も兄梅太郎と団子岩の杉家から通学した。 ところで、嘉永元年(1848)には文之進が任官したため、塾は事実上閉鎖された。再開されたのは嘉永6年(1853)ころに外叔久保五郎左衛門によってであるが、これは玉木塾のリバイバルではなく、弘化初年よりあった久保塾(ほとんど寺子屋に近かった)が松下村塾という旧称を継承したものである。安政3年(1859)9月に松陰が書いた「松下村塾記」は、この塾のためのものであるが、彼自身はすでに�幽室を教場に授業を始めており、しかもその中には久保塾の生徒も交じっていたから、両者の関係は極めて複雑である。塾生中の年長者に漢学教育を施したという意味で、少なくとも松陰は、久保の主宰する松下村塾の助教格であったが、表面には出てこない。まだ幽閉中の身であったため、藩当局を慮ったものであろう。 そのことは、安政4年(1857)11月5日、幽室を出て八畳一間の塾舎に移り住んだとき、塾主を久保五郎左衛門、教師を富永有隣としていたことにもうかがえる。おそらく久保塾を隠れ蓑にし、教育活動が次第に公然化していくにともない、松下村塾の看板を五郎左衛門より譲られたものであろう。見方によっては「松下村塾記」は、松陰が自らの主宰する塾の教育理想を久保塾に託して高潮したということもできる。 |