龍馬をめぐる女たち ~坂本家三姉妹~ |
一番上の姉の千鶴は、龍馬より18歳年上で、高知安芸郡安田村郷士高松順蔵に嫁して、後の海援隊士高松太郎( 坂本直)と自由民権家で北海道開拓クリスチャンの高松南海男(坂本直寛)を生んだ。順蔵は居合術の名人で、国学儒学にも通暁し、山内容堂に召し抱えられようとしたが、これを辞して在野の教授師範として鳴らした人物である。少年龍馬もしばしばこの高松家を訪れており、後々まで義兄順蔵に心を寄せている。乙女に与えた家信を写し取って「順蔵さんにお見せ」と伝えているほどである。 千鶴は龍馬脱藩の前年、文久元年45歳で病没し、そのうえ、龍馬とは年が隔たっており、あまり接し合う機会もなかった様子であるが、千鶴より龍馬宛の手紙一通が残っている。江戸修行中の龍馬が受け取ったものと推定される。 「おまへも口よふじょふ(養生)、どうぞきう(灸)御すへ成され、じぶんにきお付んと、今はきおつける人ないぞよ」とあって、末弟への母のような自愛が満ちている。
刀を渡したはずの栄は、弘化2年(1845)に死亡していたことが、彼女の墓石が発見されたことによって明らかとなり、脱藩の17年前に死んでいた栄が刀を渡すことなどできるはずもなく、自害も当然できるはずがない。
そんな彼女の生涯も決して幸せではなかった。結婚相手は同じ町内に住む山内家の御典医岡上樹庵で、岡上家には霜という姑がいて、明治まで百歳を生きて、働き者、しっかり者、むつかしやであった。米のとぎ汁の中に米粒が三粒以上入っていると注意がとんできた。 乙女の育った坂本家は裕福な、むしろ遊芸を身上とし稽古事に専念して、家事などは女中任せの、武家というよりは上流商家の環境である。乙女の娘岡上菊栄が語った話では、「毎日のおかずは尾頭付きの鯛が常で、それを裏表食べるのは武士の子にあるまじき下品なふるまいと子らは教えられ、来客に出す菓子は紅白二品をそれぞれ別の高杯に盛り、白菓子を先に、次に紅菓子で3つ以上食べてはならぬ、余った分は遊び相手の友達に与えるという風で、家事一切は女中任せで、稽古事と人との付き合いに日を送っていた」とある。 このような坂本家で育ち、普通家庭にない大雑把な乙女と、岡上家の姑と馬が合うはずもない。そのうえ寿庵は身長150㎝足らずの小男で、短期で癇癪持ちであった。気に食わぬことがあると、乙女を引き据え、髪を掴んで殴りつけた。けれど女大学の三従思想の教育を順守した乙女は、少しも抵抗せず無理があっても恐れ入ってひたすら夫に仕えようとした。 結局乙女はこの岡上家に居ることに耐えきれず、一男一女を生んだが、岡上家に居た女中を母代わりにして、慶応年間の頃に家を出て、坂本家に帰っている。 |