龍馬をめぐる女たち
~龍馬と乙女 ①~
 


 乙女が母代わり
龍馬にとっては、坂本家の三姉妹の三女乙女こそが母親代わりであった。龍馬は12歳で母を亡くしており、この3歳年上の乙女の世話を受けてきた。泣き虫、夜尿垂れの末っ子の彼が、この逸話が多い女丈夫の乙女によって、一人前の男に訓育されたといってよい。「乙女、龍馬を愛撫して倦まず、怯を矯め勇を励まし、以て其の性情を一変す」とある。龍馬脱藩の際、刀を渡したのは乙女であると、長く信じられたのも、この親密さ、姉弟愛があった為である。
龍馬は書き送った手紙にも、乙女に対しては特に素直に率直にその心情を書いている。その文面には気兼ねもなく、てらいもない、自在な心がくつろいでいる。時に甘え、時に威張り、冗談口をたたいてからかい、心の丈を打ち明ける人は、龍馬にとってはやはり乙女姉なのだ。姉弟であるよりは心隔ての無い親友的存在であった。おそらく幕末志士の間で、姉妹とこのような並列的近代的人間関係を持った男は、数が少ない、というよりか殆どいないであろう。これは坂本家のもともとの明るさでもあり、南方風土のおおらかさでもある。龍馬自身の何にもとらわれない発想の根本が、ここら辺に根差しているからでもあろう。
 乙女への手紙
「世の中の事ハ月と雲、実ニどフなるものやらしらず、おかしきものなり。うちにおりてみそよたきぎよ、年のくれハ米うけとりよなどよりハ、天下のセ話ハ実二おふざっぱ(大雑把)なるものニて、命さへすてれハおもしろき事なり」(慶応2年12月4日 乙女宛)
「薩州にて小松帯刀、西郷吉之助などが如何程やるぞ、やりて見候へなど申くれ候つれバ、(中略)どふぞどふぞ昔の鼻たれと御笑被遣間じく候」(慶応2年12月4日 坂本権平・一同あて)
慶応2年当時の龍馬は、天下を周旋するくらいの立場になっていたが、昔の夜尿垂れ、鼻たれへのコンプレックスがある。自分の弱点もすべてを知っている乙女を頂点とする故郷の人々へ向かって、龍馬は現在を語り、成長した己を知らすべくこまめに手紙を書く送ったと思われる。龍馬の形式にとらわれない、自由な心は、その書や文によくあらわれているが、曽於内容の楽しさ、豁達さは本当に幕末の志士のものなのかと思われるほど、明るく自由自在である。
お龍の生い立ちから性質を紹介する文、寺田屋遭難と新婚の鹿児島行きのレポート、己の人生観を語る文、下関海戦の絵入り報告等、これを書いた龍馬は後世に伝えられて如何様に批評されるかなど考えてもいなかったであろう。自由自在の考えを、書きなぐりの分として、本当に伝えたかった乙女だけに見せるために書いたのである。長崎から、下関から、伏見寺田屋から、土佐の乙女姉に現況を知らせたいための文が、類例のない書翰文学を成したのである。




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