織田信長 ①
永禄3年(1560)5月19日早暁  
「湯漬けを持て!」
(桶狭間の戦い)


   今川義元に攻められ、絶体絶命!?
永禄3年(1560)、とりあげているのは、あの有名な桶狭間の戦いのことです。
桶狭間で戦いが起こることは、正直少なくとも攻め込まれた今川方、特に総大将の今川義元はほとんど予想していなかったでしょう。しかも、雨の中休憩している間に、まさか己の人生の幕を下ろすことになるとは・・・。

当時、今川は三河にその勢力を伸ばし、隣国の尾張を制圧して、伊勢湾の海上貿易、商業圏を制圧したいと考えていました。伊勢湾地域は日本でも屈指の商業圏であり、ここを制圧すれば大きな経済効果が期待でき、今川家の勢力も飛躍的に拡大するからです。拡大することにより、今川家が東海道筋からさらに近畿方面へ勢力を伸ばし、天下に大きな影響を与えることができる。吉本がそう考えても決して不思議ではないどころか、当時の世相を考えればむしろ当然のことだったと思います。
しかし、その伊勢湾の商業圏の勢力の大半は、当時終わりのほとんどを制圧していた織田信長のものでした。織田家は信長の父信秀の時代に、伊勢湾の主な港である熱田や津島などを抑え、莫大な利権を獲得しました。その利権から出る資金をもとに朝廷へ献金なども行い、中央政権から一目置かれた存在でした。

よく、当時の今川と織田を比較して、圧倒的に今川が優位だと言われてきました。それは、織田家が尾張のみ(しかも当時は完全統一はしていない)の所領に対し、今川は駿河・遠江に加え、三河の松平家を事実上の保護領扱いにしていたため、3か国を領していたことにより、その領国の広さだけで見れば今川家が織田家を圧倒していたように思えたからです。
しかし、伊勢湾の商業圏の大半を抑えていた織田家の経済力は莫大で、三カ国の太守今川家と経済力とさほど変わらないだけのものがあったと思われます。勢力だけで見れば、決定的な実力差はなかったと思われます。むしろ互角の勝負さえできたほどだったのではないかな、と・・・。
もう一つ言われることは、織田と今川の「家格」です。生粋の守護大名であった名門今川家に対して、守護代の家老だった成り上がりの織田家、という比較論です。
ですが、織田家というのも決して新興の家柄ではなく、南北朝期からその名を歴史上に残しています。もとは越前の出であり、朝倉氏とその勢力を競っていたほどらしいです。さらには、信秀の時代には先に述べたように、朝廷へ献金するほどになっており、中央政権にもその名を轟かせています。
対する今川家ももちろん、全国中に知らぬ者のいないほどの名門でしたが、中央政権への聞こえの良さという点では、ここでも決してどうしようもないほどの差はなかった、と思われます。

俗にいう、「義元に攻められた信長は絶体絶命だった」という意見は、実際のところかなり違うのではないかと思っています。 
    理にかなった戦略の今川方 
とはいえ、どちらが優勢だったかと言われれば、やはり今川方であったようです。
東海道筋3か国を手中に収め、がっちりと領国を固めていた今川に対して、織田は尾張をまだ完全統一していない。統一事業もあと少しで仕上げという段階であったが、攻め滅ぼした領地に対する統治もまだ盤石とはいえない状態であり、家臣や領主たちから裏切られる可能性もかなりありました。
尾張が信長によって完全掌握される前に、一度叩いておく必要がある、と義元は思ったのではないか?桶狭間の戦いをいわゆる「上洛し、天下を取る」という目的であったという意見は、最近ではかなり否定されています。上洛したい、天下を取りたいという気持ちは義元の中にもあったのだろうが、この尾張攻略事業は、あくまでも伊勢湾の商業圏の確保という側面で考えるべきでしょう。
盤石にならない織田家の状況を、今川方は見事についています。尾張攻略に際して、、今川方は実に重厚かつ巧妙に工作を練っています。尾張と三河国境付近の国人領主たちへの誘功作戦はかなり功を奏しており、今川方に寝返る者もかなりいます。今川と織田で決定的なまでの差はなかったとはいえ、盤石な今川家に対し、制圧したばかりで脆弱な基盤だった織田のそれと比較すれば、己の所領を確保したい国人領主たちは、やはり今川に鞍替えする事を選ぶのでしょう。

これに対して織田方は、受け手に回らざるを得ない。徐々に切り崩されていく様子を見れば、重臣たちも焦り、今川方に寝返っていくことも当然想定できました。
いざ合戦になれば、そう簡単に織田が負けるということはなかったでしょう。押され気味ながらもある程度は凌ぐ、という構図で作戦は進んでいったと思われます。そしてそれは、義元も織り込み済みの展開ではなかったか?
義元とすれば、自軍が優勢に事を運ばせ、ある程度のところで信長の屈服を見込み、事実上尾張の制圧を完了する、という見込みであり、信長自身を攻め滅ぼすことを必須としてまではいなかったのではないかと思います。 
     織田信長という男 
「俺を甘く見るなよ」
義元に対して、信長はそう思っていた。というのは推測でですが・・・。
織田信長という男は、(結果的に見ればだが)いわゆる当時の戦略上の常識が通じる相手ではなかったのです。
ご存じのとおり、大軍を休ませていた桶狭間(田楽間)に敢然と攻め込み、そして義元の首をはねる。
優勢に事を運んでいた今川方に対し、織田方も当然砦に立てこもり交戦し続ける。しかし、砦は徐々に今川方に攻め取られていく。この間、信長は手をこまねいて、何もできないでいたかのように思えました。
重臣たちを「もう帰って休め」と言って軍議も行わずに追い返したとされるが、これこそが戦国の常識を覆した織田信長という男の真骨頂、ワンマンぶりでした。
早暁、突然起きて信長は「湯漬けを持て!」と言って、湯漬けをかきこみ、「人間50年」の敦盛の舞を舞ったとされます。
「湯漬けを持て」といった瞬間こそが、彼の、信長の決断の時。
そう、信長は「乾坤一擲」の大勝負を狙ったのです。

この決断を持って、信長が必ずしも「義元の首を狙う」ということを第一目的としたわけではなかったのでしょう。戦略目的とすれば、やはり大軍が油断しているであろうときを狙って、今川に痛撃を与え、当面回復困難な状況までに追い込み、撤退させることだったはずです。兵力が寡少の側が、過大の側に攻め込むことは、戦い上の常識としてはあり得ない話です。(実際にはかなりあるが)通常であれば織田方は砦にこもって防備するところまでして、相手側の疲弊を待って(兵站が尽きるのを待って)和睦、というところを目論む。小田原の北条を圧倒的大軍で攻めた上杉謙信が小田原城を攻めあぐね、それをひたすら待ち、撤退させた北条氏康の戦略がこの時代はある程度は常道だったと思います。
信長はそんな常道を取りません。相手に痛撃を与えること、つまり自軍に有利な形をとることに全力を注いだのです。
そして、この作戦をとるにあたって、信長は決死の覚悟であったに違いありません。実際に取るべく戦略と、戦いに臨む気持ちというのは、必ずしも一致するものではないのです。この戦略でも信長は何も玉砕を目論んでということではなかったと思います。だが、このような戦いに臨むのであれば、死を賭してやるべきです。彼の決断は、まさに死を賭したものでした。そしてこの決断こそが、最終的には大将の義元の首を取るという「想定外」の結果を産み、歴史的な大勝利を収めることになったのです。

なお、信長は後年「桶狭間の戦い」のような作戦を二度と採りませんでした。彼はその後、常に敵を上回る状況(兵力など)で戦いを進め、勝ちを収める、という戦略で進めていきます。
桶狭間の戦いは、本来とるべき作戦ではなく、作戦の王道からは外れている、彼にとっては不本意なものでした。自分の勢力を盤石にし、常に有利に運ぶように戦いを進めていく、そのことを再認識して、天下阜武への道を切り開いていった戦いではないか、という己に対しての「戒めの戦い」ではなかったかと思います。 



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