3・秀吉の家臣としての三成
賤ヶ岳合戦における三成

    賤ヶ岳合戦
賤ヶ岳合戦は天正11年(1583)4月20日と21日、羽柴秀吉と柴田勝家が近江北部の余呉湖周辺で、織田信長亡き後の後継者争いに決着をつけるため戦った合戦である。勝家は3月12日に戦場の伊香郡柳ケ瀬村(伊香郡余呉町柳ケ瀬)に着陣。その南方に多くの城郭を造らせ、自らは内中尾山城に入った。秀吉は3月10日に伊勢国から長浜へ戻り、17日には木之本(伊香郡木之本町)の本陣に入った。そして、その北部に多くの城郭を造らせている。余呉湖周辺に構築された両軍の城郭は、主なものだけでも十数個に及ぶ。すなわち、賤ヶ岳合戦は4月21日の決戦まで、1か月余り両軍が対峙していた期間があり、仙石合戦の中でも稀にみる「築城戦」でもあったのだ。
    三成の活躍
この両軍が対峙する中で、三成の活躍の場があった。同年3月13日付の石田三成書状(称名寺文書)は、秀吉軍のために諜報作戦をおこなっていた、浄土真宗寺院の称名寺に宛てたものである。この時点でまだ三成の署名は「三也」で、賤ヶ岳合戦の時はまだ三也が実名だったことがわかる。柴田勝家の陣地がある、柳ケ瀬に遣わしていた者が持ち帰ってきた情報を、秀吉に申し上げたところ、非常に満足の様子だったことを称名寺に伝えている。さらに、今後も柳ケ瀬に人を配置するよう依頼している。この柳ケ瀬に配置した者は、もちろん「忍びの者」であろう。おそらく、敵情を偵察する役目を負っていたとみられるが、称名寺はその「忍びの者」を管理・監督する立場にあったと考えられる。この時代の称名寺住職であった性慶は、本能寺の変にあたり長浜城にいた秀吉妻子を、美濃国へ安全に避難させた実績があり、秀吉の厚い信頼を得ていた。 
    忍びの者の活動
称名寺が派遣していた「忍びの者」の具体的な行動は、三成の書状から2日後に出された称名寺宛の羽柴秀吉書状によって確認できる。それによれば、余呉やその東の谷である丹生の山々に隠れている百姓に対して、秀吉側について柴田軍の首を取る手柄をあげたものは、褒美を遣わすと記されているのである。合戦を前にして村から逃れ、山々に潜伏している百姓に対して、秀吉側になって行動したほうが有利であるとの情報を流し続けたのである。賤ヶ岳において秀吉軍が七本槍の活躍により、瞬く間に柴田軍全体を敗軍に追いやった背景には、こういった三成や称名寺の指示による「忍びの者」の諜報活動があったと推察できる。
先の三成文書では、秀吉から直接礼状が届くであろうと、追而書に記されているが、それがこの2日後の秀吉書状であることは言うまでもない。ここにお、秀吉の側にいて、諜報活動について秀吉に報告し、その指示を受ける三成の姿がある。また、称名寺も三成を介して秀吉の指示を受けていたことがわかるのである。先の淡路の件も含めて、天正11年(1583)には、秀吉の側近としての三成の地位は確立していたことが読み取れる文書である。
なお、「一柳家記」によれば、秀吉の「先懸衆」として柴田軍に突撃した将兵14人の中に石田三成の名がみえている。石田三成の数少ない武功を示す記事として貴重だが、この「先懸衆」の話は、他の史料には登場しないので、信ぴょう性は低いと思われる。
 





戻る