3・秀吉の家臣としての三成
秀吉の取次役

    「三也」だった三成
秀吉の家臣となった三成は、最初秀吉の身の回りの世話をする「近習」となったと推定されるが、天正4年(1576)に秀吉が信長から中国地方攻略を命じられると、これに従軍したと考えられる。播磨上月城攻め、同三木城攻め、但馬侵攻から因幡鳥取城攻め、さらには備中高松城攻めと、矢継ぎ早に中国地方東部を制圧する秀吉の側で、三成も活躍したであろうが、それを示す史料は何も残されていない。秀吉家臣としての三成の活動が、初めて史料上に表れるのは、信長が討たれた本能寺の変直後のことである。
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変に際して、淡路国では明智光秀に呼応して、毛利氏の配下であった菅平右衛門尉が洲本城を占領し、備中国から光秀追討に向かう秀吉軍の側面を脅かしていた。6月9日、明石に着陣した秀吉は、軍の一部を割いて淡路に派遣し、洲本城の菅平右衛門尉を破り、同じ淡路国内の岩屋城を修理して守備の軍を配置した。この菅氏攻めに秀吉軍として参加した淡路の地侍である広田蔵丞に宛てた感状が残っており、洲本市指定文化財となっている。
そこには、天正11年(1583)の正月23日付で「石田佐吉三也」と署名がある。三成が最初その実名を「三也」と記していることがわかる、数少ない史料である。また、三成が出した文書として、現時点では最も古い史料である。なお、「三也」から「三成」への改名は、天正11年4月の賤ヶ岳の合戦直後のようである。
    秀吉の取次役としての三成
この書状では、広田蔵丞が明智方に着いた菅平右衛門尉の家臣を討ち取り、あるいは生捕ったこと、その生捕った者を、淡路国洲本城主となっていた仙石秀久を通じて、増田長盛まで届けたこと、広田氏の功績を、秀吉に取り次ごうとしているが、秀吉の機嫌が悪く表に出てこないので、まだ言えていない。しかし、内々に約束している知行のことは、仙石秀久などへも連絡してあるので、問題なく与えられるので心配は不要であることが述べられている。三成がすでに秀吉側近として、各武将からの報告や恩賞要求を取り成す「取次」としての役割を果たしていたことが読み取れる。
この件に関しては、その年の8月に出した三成の書状も残る。署名はすでに「三成」となっており、秀吉から淡路国支配を任されていた仙石秀久宛で、同じく洲本市指定文化財となっている。広田蔵丞への秀吉宛行状の発給について、淡路国内で領地を与えるつもりで秀吉の同意をも取ってあるが、仙石自身への宛行状も出されていないので、今のところ発給を延ばしている。広田蔵丞は知行を与えても無駄にならない武将と、仙石からの推薦もあるので、一度あってみたいとも記す。今後も、秀吉への「取次」は続けるので、少将待つようにとの指示と考えられる。ここでも、秀吉への取次役としての三成の姿が浮かび上がってくる。
   





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