海舟の世界観
 ~ペリー来航~
 

 ペリー来航を見に行く
第一回のペリー来航の時、海舟は見物に行った。
「初めて軍艦が来たのを見に行ったよ。18歳の時でね。今の壮士さ。6,7人連れで行ったよ。その時は、大変な騒ぎさ」
18歳の時というのは間違いで、嘉永6年(1853)の海舟は31歳である。「大変な騒ぎ」というのはその通りだが、これだけを読むと海舟は野次馬の一人に過ぎないような印象を受ける。無益の貧乏状態だった彼の心中にあったのは、「いよいよ来たな、面白くなってきた」というようなものだったであろう。
海舟は蘭学(オランダ語の学習)に打ち込んででいた。天保9年(1838)海舟は島田虎之助に入門して剣の修業を始めるが、それとほぼ同時に蘭学を始めたようだ。ペリー来航の15年前である。その動機というのは、師匠の島田が勧めたというものと、もう一つは江戸城でオランダから献納された大砲の砲身に刻んであった横文字に大きなショックを受けたというもの。大砲を使うには、どうしてもこの横文字が読めなければならぬ必要を感じたというのである。
大砲を使うということは、海防、政治という図式が想起され、彼の生涯がここで花開く感がある。が、そういった理想よりも、もっと現実的に「オランダ語を訳せれば、これで食っていけるかもしれない」そんな思いが強かったこともあるだろう。
貧窮のどん底
海舟の家は貧窮のどん底にあった。役入りの望みはほとんどない。となれば、少しは楽な暮らしの立つ途を探すのは当然だろう。長崎にはオランダ通詞という役がある。蘭方医というものの存在もある。暮らしを立てるなら、こういった珍しい仕事のほうが良い。
オランダ語を修行するきっかけとは、案外こんなものだったのかもしれない。福沢諭吉と同じようだが、福沢はオランダ語から英語に移り、英語で食うのを一生辞めなかったのに対して、海舟の方は途中から曲がってしまうことだ。
オランダ語をはじめてみたものの、当時の江戸はオランダ語修行に相応しい環境ではなかった。剣術の腕は上がり、島田の代稽古を務めていくらかの稼ぎが入るようになったのも束の間、オランダ語などをやる剣法家は怪しい、ということで門前払いを食らわせる家が多かった。
だが意地っ張りの海舟は、「これだけ嫌われるからには、五日オランダ語に高い値はつくはず」とかえって手ごたえを感じたようだ。
やがて、オランダ語で食える日はやってきた。「ズーフ・ハルマ」を二部筆写し、一部は自分のものに、もう一部は売り払った。筆写用の原本は一年間十両の損料で借りた。買えば六十両はしたという。
海舟の筆写本を買ったのはオランダ語の師の永井青崖で、相場の六十両を払ってくれたらしい。六十両は大金だが、父の小吉が作った借金返済にまわしたので、海舟の手許にはほとんど残らない。しかし、オランダ語が金になったのである。食えるようになる日は近い。
 オランダ語で食える日々
「ズーフ・ハルマ」」の筆写本は嘉永元年(1848)の事件だが、それから2年後には「ソルダード・スコール」というオランダの兵学書を見つけ、所有者の大場安右衛門の家に毎晩通って筆写した。感服した大場は、固辞する海舟に「ソルダード・スコール」の原本を「俺より貴殿が持つのがふさわしい」と押し付けてしまう。
原本と写本と、二冊の「ソルダード・スコール」が海舟のものになるが、うち一冊は永井青崖を通じて、三十両で売り、父の医者代にした。
暮らしが楽になるところまではいかないが、とにかく海舟はオランダ語で食えるようになってきたのである。この年にはオランダ語の塾を開きもした。この年は、オランダから「アメリカが対日貿易開始に動き出した」との通報があった年でもある。だからこそ幕府は旗本・御家人のオランダ語修行の制限を厳しくし、機密防衛に努めた。
そしてペリーがやってきた。アメリカ人がオランダ語を読み書きしないことくらいは、海舟でもわかっている。それで構わない。海舟の当時の世界観とすれば、アメリカはオランダの文化文明の一部なのだ。オランダ語をやっていなければ「アメリカが来た、大変なことになる」という受け止め方だ。しかし海舟は違う。
自分のやってきたオランダ語とオランダの文明文化とが目の前でつながった。そういう気持ちでペリーの船を見ていたのである。




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