勝海舟論
 ~勝海舟伯爵~
 

 海舟への授爵理由
明治新政府は、成立早々の明治2年(1869)に公卿・旧藩主を華族とする制度を始めたが、明治17年(1884)に至って華族令を制定した。これは旧来の華族に加え、国家に勲功のある者も華族に列することとし、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵が、家格や勲功などを考慮して授けられた。
勲功華族となった人々は、圧倒的に薩摩・長州・土佐出身のいわゆる維新の功臣やその子孫であり、大久保利通の子や木戸孝允の子は侯爵となり、伊藤博文・大山巌・松方正義・山県有朋・佐々木高行らは伯爵となった。明治政府はまさに藩閥政府であり、「薩長にあらずんば人にあらず」といわれ、このような授爵も当然のことであった。
明治20年(1887)に多くの勲功華族が生まれたが、この時始めて幕臣にも授爵が行われた。その中で勝海舟は伯爵、榎本武揚・大久保忠寛・山岡鉄舟は子爵となり、以下男爵になった人もある。幕臣としては勝が最高位であり、同時に伯爵に授爵された人には、後藤象二郎・板垣退助・大隈重信・副島種臣らがいた。勝海舟が伯爵となった最大の理由は、明治維新期における彼の活動、特に江戸城無血開城が評価されたからで、明治政府に出仕して参議兼海軍卿になったことなども加味されてのことであろう。
この華族制度は、明治期から昭和の太平洋戦争に至る間、日本の政治・社会その他あらゆる面に大きな影響力を持った。華族は皇室の「藩屏」とされ、貴族院議員はほとんど彼らによって占められた。
勝が伯爵を受けたとき、多くの幕臣たちはこれをどう見たであろうか。明治になって20年、ほとんどの彼らは没落した。かつての何千石の直参も、市井の巷に逼塞していた。中には幕臣も華族になったと喜ぶ人もいたであろうが、大多数は勝に対して好感を持たなかったのではないか。だが明治新政府から見れば、勝はきっと幕臣の代表ともいえる存在であった。果たして勝がそれに値する人物であったのか。彼が果たした役割とは何だったのだろうか。
激動の時代の目前に
勝海舟が生まれたのは文政6年(1823)の正月のことである。時の将軍は十一代将軍家斉であり、文政期はその前の文化期と併せて、文化・文政期といわれ、家斉は天保8年(1837)に将軍職を子の家慶に譲るまで、在職40余年に及んだ。この時代は天下泰平、文化は爛熟し、大奥の豪奢はこの時期に絶頂に達した。しかしそれは表面の一現象に過ぎなかった。封建社会の動揺は年月を追って深刻になり、やがて天保12年(1841)にはその対策としての水野忠邦の天保改革が始まる時期であった。
当時の世界情勢を一瞥すると、19世紀に入ってイギリスを先頭とする欧米諸国の資本主義が発展し、それは地球上のあらゆる土地を、植民地・市場とする強い要請を持つようになった。そしてそれを可能ならしめる武器として蒸気船の発明があった。アメリカ人ハミルトンがハドソン川で汽船の航行に成功したのは文化4年(1807)のことであり、その後汽船の進歩にはまことに目覚ましいものがあった。また資本主義の発展の要請した汽車が発明されたのも、文化11年(1814)のことである。このような資本主義諸国家の眼が、清国をはじめとするアジアの諸国家に強く注がれてきたのが文化・文政期であった。
 旗本の子として
勝海舟は、旗本小普請の小吉の長男として生まれたが、禄は四十俵で無役であり、旗本としては最下級であったといえる。勝家の生計が極めて貧しかったのは事実で、その勝が幕末史上重要な地位を占めていくのだが、たとえ最下級であっても彼は旗本であった。彼の家は古くからの旗本ではなく、旗本家の株を買った新参家であったが、旗本は旗本である。旗本は御家人より格が上である。世はまだ幕府支配の封建社会であり、家格が重視されたことは極めて大きかった。勝が比較的順調に昇進できた要因を考えると、やはり御家人や陪臣では、いかに才能があってもそうは昇進できなかったであろう。「あいつは直参だ」ということで、随分と得をしたこともあったと考えられる。
もちろん、勝つには個人的才能があったことは間違いないだろう。だがその才能とは、やはりその時代を背景にして発揮されたものである。ということは時代の潮流が、人間を造ったということであるが、しかしいかにそのような潮流があったにしても、凡人は凡人であった。従って人物を考察する場合、その人物の生きた時代背景と、その人物の個人的才能を一体のものとして考えるべきであろう。時代背景を考えない人物論は、単にその人物の個人的才能の顕彰に終わってしまう。同時に時代背景に力点を置き過ぎると、人間像が消し飛んでしまう危険性があり、その点が人物論の難しい点であろうかと思う。




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