勝海舟論 ~勝海舟伯爵~ |
勲功華族となった人々は、圧倒的に薩摩・長州・土佐出身のいわゆる維新の功臣やその子孫であり、大久保利通の子や木戸孝允の子は侯爵となり、伊藤博文・大山巌・松方正義・山県有朋・佐々木高行らは伯爵となった。明治政府はまさに藩閥政府であり、「薩長にあらずんば人にあらず」といわれ、このような授爵も当然のことであった。 明治20年(1887)に多くの勲功華族が生まれたが、この時始めて幕臣にも授爵が行われた。その中で勝海舟は伯爵、榎本武揚・大久保忠寛・山岡鉄舟は子爵となり、以下男爵になった人もある。幕臣としては勝が最高位であり、同時に伯爵に授爵された人には、後藤象二郎・板垣退助・大隈重信・副島種臣らがいた。勝海舟が伯爵となった最大の理由は、明治維新期における彼の活動、特に江戸城無血開城が評価されたからで、明治政府に出仕して参議兼海軍卿になったことなども加味されてのことであろう。 この華族制度は、明治期から昭和の太平洋戦争に至る間、日本の政治・社会その他あらゆる面に大きな影響力を持った。華族は皇室の「藩屏」とされ、貴族院議員はほとんど彼らによって占められた。 勝が伯爵を受けたとき、多くの幕臣たちはこれをどう見たであろうか。明治になって20年、ほとんどの彼らは没落した。かつての何千石の直参も、市井の巷に逼塞していた。中には幕臣も華族になったと喜ぶ人もいたであろうが、大多数は勝に対して好感を持たなかったのではないか。だが明治新政府から見れば、勝はきっと幕臣の代表ともいえる存在であった。果たして勝がそれに値する人物であったのか。彼が果たした役割とは何だったのだろうか。
当時の世界情勢を一瞥すると、19世紀に入ってイギリスを先頭とする欧米諸国の資本主義が発展し、それは地球上のあらゆる土地を、植民地・市場とする強い要請を持つようになった。そしてそれを可能ならしめる武器として蒸気船の発明があった。アメリカ人ハミルトンがハドソン川で汽船の航行に成功したのは文化4年(1807)のことであり、その後汽船の進歩にはまことに目覚ましいものがあった。また資本主義の発展の要請した汽車が発明されたのも、文化11年(1814)のことである。このような資本主義諸国家の眼が、清国をはじめとするアジアの諸国家に強く注がれてきたのが文化・文政期であった。
もちろん、勝つには個人的才能があったことは間違いないだろう。だがその才能とは、やはりその時代を背景にして発揮されたものである。ということは時代の潮流が、人間を造ったということであるが、しかしいかにそのような潮流があったにしても、凡人は凡人であった。従って人物を考察する場合、その人物の生きた時代背景と、その人物の個人的才能を一体のものとして考えるべきであろう。時代背景を考えない人物論は、単にその人物の個人的才能の顕彰に終わってしまう。同時に時代背景に力点を置き過ぎると、人間像が消し飛んでしまう危険性があり、その点が人物論の難しい点であろうかと思う。 |