![]() 天正10年(1582)6月3日? 「天下取りの好機でございます」 (本能寺の変~山崎の合戦) |
本能寺の変は予想できたことなのか? |
本能寺の変。ご存じ織田信長が家臣の明智光秀に、京都の本能寺にて討たれた事件です。 この事件が衝撃的だった事実は、事件後の各地の諸将たちの動きが激変したことでも明らかです。信長に攻められ続けた勢力たちは九死に一生を得たでしょうし、逆に信長の家臣たちにとっては攻勢に出ていたところから急変し、守勢に回らざるを得なり、その立場さえ失いかねない(事実失った武将も少なくなかった)状況となったのです。 その中にあって、一人だけ違う動きをした武将が居ました。もうご存じですよね、羽柴秀吉です。正確には羽柴秀吉とその軍勢というべきでしょう。 先述したように、織田方の諸将たちは各地の抵抗勢力を攻め滅ぼすべく転戦し、ほとんど攻勢に出ていました。北陸路の柴田勝家の軍勢は、上杉軍を圧倒し、間もなく上杉家を四方から攻略しようとしていましたし、関東でも滝川一益が北条氏の上位に君臨する立場となっており、四国でも織田信孝と丹羽長秀らの軍勢が長宗我部軍を圧倒したであろうと思われます。だが主君の死によってその立場は一転して守勢に追い込まれます。滝川一益は関東から逃げかえる始末ですし、柴田勝家も上杉軍の影響を考えて、北陸路を引き返す動きが鈍くなりました。 唯一違ったのは秀吉。秀吉も毛利の主力との決戦を高松城外にて目論んでいましたが、秀吉の死を知るや否や即和睦交渉を成功させ、一転して中国路を東進します。秀吉の軍勢だけが一気に東進して畿内に入りこみ、最終的に明智側の3倍近い兵力をそろえることに成功し、山崎にて明智軍を倒すことに成功。光秀を討ち、一躍秀吉が信長の後継者的立場に一気に近寄りました。 あまりに鮮やかな転進と勝利のため、この秀吉の行動に疑問を抱く人たちも相当数おります。まるで、本能寺の変を予測していたのではないかと。確かに10日もかからず明智を滅ぼしているのは手際よすぎると思えなくもありません。 本能寺の変のより深い考察については別項に譲ります。私は現時点では、光秀の単独犯行で、それも事前に綿密な計画と連絡があったようなものではなく、やや突発気味に起こった事件であった。それが故に周囲も全くそんなことが起こるなどとは予想してもいなかった。故に各諸将はみな動揺し、結果として秀吉だけが見事な行動で光秀を倒した、という視点でこの項目を語ります。 |
黒田如水の底意 |
上方からの「信長死す!」の急報を受け、秀吉は大いに動揺します。その時に、秀吉の名参謀であった黒田如水が、秀吉にこうささやいたといわれています。 「殿、天下取りへの好機でございます。」あるいは「御運が開かれましたぞ」 主君が討たれ、動揺しているときにかける言葉ではありません。この言葉も本当にそういったかまでは不明です。 しかし、如水ならばこのように言って主君(秀吉)を次への行動をおこさせなくてはならない。主君信長が討たれたことは、厳戒態勢を敷いていたにせよいずれ毛利方に知らされます。毛利方が俄然反抗してくる可能性が高く、明智軍と挟み撃ちにあう可能性もあり、このまま手をこまねいていたら羽柴軍は撃滅されかねない。 であれば、一刻も早く次の手を打たなくてはいけません。如水は、秀吉の参謀として上記のような言葉を発しないといけないと思ったのではないでしょうか?上記の言葉通りではないにせよ、ある程度刺激的な言葉で秀吉を奮起させなくてはいけないと思ったに違いない。 主君信長が討たれた非常時だからこそ、迷っている、悲しんでいる暇なんかない。一刻も早く次の行動を起こす必要があった。 まずは主君を奮起させる、これでしょう。 少なくとも如水がこの時点で主君を出し抜いてなんてことは全く考えるはずがない。参謀であるからこそ、主君に嫌われ兼ねない発言であっても、時に言う必要があった。如水は意を決してこの発言をしたのではないかと考えます。 |
秀吉と如水 |
この如水の叱咤により、秀吉もはっとしたことでしょう。いま行動を起こせば道は開ける。迷っていたらやられるだけだから、行動するなら一刻でも早く、明智よりも早く起こす必要がある。 秀吉が天下人となるほどの器量の持ち主だったのは、これでしょう。つまり、思い立ったら行動する。行動してみる。行動してから考える、これなのではないでしょうか? 秀吉の行動力と、如水の思考力、この二つは戦国時代では屈指のものだったに違いない。この二つがかみ合わさって、中国大返し~山崎の合戦での勝利は叶ったのではないでしょうか。二人の天才の思考の噛合い、如水の放った一言が秀吉の思考回路を活発化させる。そこからの行動力のすさまじさたるや神がかり的なものがあります。 しかし、秀吉は如水のこの時の発言を恐れるようになったと言います。後年、天下人となった秀吉が、側近たちにこんな話をします。 「わしが死んだら、次の天下人はだれか、遠慮なくいってみよ」 側近たちは口々に、「徳川家康」「前田利家」「毛利輝元」といった面々の名をあげますが、秀吉は「違う」といい、次の名をあげます。 「黒田如水じゃ」「あいつは俺が生きていてもその気になりゃ天下がとれるわい」 この話を聞いた如水は震え上がり、家督を嫡男の長政に譲ったといわれるほどでした。 この話が本当かどうかはわかりませんが、秀吉が如水を恐れたというのは事実でしょう。 しかし、のちに恐れられるのを覚悟して如水はあえて上記の発言をしたのだと思います。そういう意味で如水は、参謀としての役割を徹底して果たしたのではないでしょうか。 |