大谷吉継の実像
 ~刑部少輔任官~
 


 播磨の調略で活躍?
大谷吉継発給の初見文書は、賤ヶ岳合戦にかかる天正11年(1583)であるが、秀吉麾下での吉継の活躍はそれ以前から存在した可能性がある。
奥野高廣氏の「増補織田信長文書の研究」は、書名通り織田信長の発給文書を博捜、収集し、個々に解説を加えた研究書である。この書の天正6年の頃に「草刈家証文」の中に伝来した年欠3月22日付の信長朱印状が収録されている。草刈氏は美作国に本拠を置く武家である。
内容は、「山中鹿助」を介した交渉により、草刈氏が毛利方より織田方へ転じる決意をしたことを「神妙」と賞し、羽柴秀吉と相談して忠節を励むよう促したもので、文末に「猶蜂須賀申すべく候」とあるように、蜂須賀小六正勝が取次となったようである。
しかし、蜂須賀が直接朱印状を携えて草刈家当主の景継を直接訪れることはなかったようで、朱印状につけられた草刈氏の覚書によれば、大谷慶松が山伏に身をやつして草刈氏に届けようとしたという。覚書が注しているように、この大谷慶松こそのちの吉継である。
ところが慶松は、毛利方に捕えられ朱印状を奪取されてしまったので、景継は窮地に追い込まれ切腹の処分となったが、景継の父衛継の毛利家への忠節が考慮され、家の存続と信長朱印状の返還が実現したと覚書は続けているのである。覚書は景継の切腹を天正3年のことと記しているが、奥野氏は朱印状の史料的価値、及びその年代比定について、関連史料を示しつつ、秀吉が播磨方面に活動しているのは天正6年であるとして、同年の項にかけられている。
  秀吉の指示により動いた密使息子
奥野氏の考察に従い、織田信長の朱印状に一定の史料的意義は認められるとしても、覚書にある、若き日の大谷吉継が密使となって草刈家へ朱印状を届けようとし、これに失敗した一件については容易に信のおける情報ではない。ただ、天正6年当時で十代半ばの吉継の事績とすれば、機知に富み敏捷な心身を持った少年時代の吉継を想像させ魅力的でさえある。
なお、信長の朱印状を携えたことから、慶松がこの時期、秀吉ではなく信長に仕官していたと判断する必要はない。蜂須賀が取り次いだ朱印状は、まず秀吉の元に届けられ、その内容を秀吉が確認したうえで草刈氏に贈られるはずだからである。文末にある「蜂須賀申すべく候」とある蜂須賀の口上の内容も含め、秀吉が熟知していなければ草刈氏への対応について齟齬が生じる可能性がある。
さらに言えば「山中鹿助」を介した交渉も含め、草刈氏調略を進めていたのはおそらく秀吉であって、信長の朱印状も秀吉からの要請により発給されたと考えるのが筋である。たとえ大谷慶松が信長の朱印状を信長の手から預かり、秀吉の一見を経て草刈氏に届けようとした事実があったにせよ、そのすべてが秀吉の指示により進められた、即ち慶松が秀吉の密使であった可能性はなお高いのである。
  刑部少輔に息子
吉継は通称を紀之助といったが、天正11年の賤ヶ岳合戦の発給文書当時から数年間の発給文書は、全て紀之助の書名がある。内容は秀吉の朱印状等に添えられる添状及びその趣旨を含む書状である。この期間において、吉継は戦時、平時を問わず日常的に秀吉の傍らにある側近の一人として活動していたと考えてよいだろう。
天正13年(1585)7月、羽柴秀吉は関白となり姓を藤原に改めた。(豊臣姓受諾は翌年)これにかかり、秀吉の家臣も多く任官し、吉継は刑部少輔に任じられた。「歴名士代」によれば「源吉継」で源姓を称している。
吉継という諱はいつ、どのように名付けられたのだろうか。永禄8年誕生説を取れば、発給文書初見の天正11年に19歳であるから、この頃にはすでに元服を済ませており諱を与えられていただろう。大谷慶松としてあらわれる先の「草刈家証文」を参照すれば、ほぼこの伝承の時期以降、天正11年までに元服していたと思われる。
母親「東」の縁故で、秀吉子飼いの家臣としての道を歩み始めたのであれば、烏帽子親、諱の授与者を秀吉その人と考えることも無理はない。その意味で、吉継という名はのちの関白豊臣秀次の名にも匹敵し、年代的には羽柴秀次に先行することにもなる。
吉継の出自については、秀吉落胤説が唱えられたこともあったが、その名前が秀吉の「吉」から取られたとすれば、確かにそう推察したくなる気持ちはわかる。だが、その後の秀吉がなかなか子種に恵まれない事実を見ると、その可能性は極めて低いと思わざるを得ない。




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