大谷吉継の実像 ~その出自~ |
豊後説は、「古今武家盛衰記」等の伝記類が伝える出自説であり、「① 吉継は豊後大友宗麟の家臣大谷盛治(平姓大谷氏)なる武士の子息で」「② 大友氏滅亡後に吉継は流浪したが、羽柴秀吉が姫路城主であった時石田三成の仲介で秀吉に臣従した」というものである。 この豊後説に対して、萩原勝氏は、豊後大友氏の家臣団には大谷姓の者を見出せないこと、ならびに「古今武家盛衰記」にいう「大友宗麟の死後流浪し、秀吉が姫路城主の頃石田三成の取り持ちで家臣になった」という説は、大友宗麟が死去した天正15年(1587)頃はすでに秀吉は天下人で、その宗麟の求めに応じ九州島津氏制圧戦争準備のさなかであり、既に吉継は扶持奉行として兵站部門の要職を得ており、当たらない。また、「古今武家盛衰記」自体が根本的に信を置くことが難しいものである。 また吉継発給の初見文書が、天正11年(1583)4月16日付のものがあり、その文書は、天正11年4月岐阜城で再度反旗を翻した織田信孝を攻略すべく長浜を出た秀吉が雨で増水した川に行く手を阻まれ、まず大垣城に入ったことを伝えるとともに、信孝と連携する滝川一益との合戦での「調儀」を示す秀吉の書状に添えられた吉継の書状である。この時点で秀吉の側近として既に吉継は活躍していたのだ。
一つは、太田亮「姓氏家系大辞典」が引く在原姓大谷系図を根拠として、六角義賢に仕えた大谷吉房の子息であるという説。もう一つは、「淡海温故禄」(江戸時代の地誌)が載せる伝承により、近江国伊香郡大谷村で大谷庄作の子として誕生したという説である。 池内昭一氏は「歴史読本」において、在原姓大谷系図の諸伝を追跡しつつ、この二説を統合的にとらえて近江説として紹介されている。そして「大友氏が六角の被官を続けてきたという系譜と、吉房の代には六角と敵対関係にある浅井氏支配の、伊香郡大谷に住していたという事実の間の、つじつまの合わない点をどう解釈したらよいか」と苦慮されつつも、在原姓大谷氏の一族が、系図が記す甲賀郡信楽から生誕伝承を残る伊香郡大谷に移住したと推定し、大谷吉房と大谷庄作を同一人物と認定することで矛盾を回避されようと試みられた。 これら二説は本来別個に伝承されてきた事柄を根拠として成り立っており、その意味でつじつまが合わないのは当然である。 在原姓大谷系図が載せる六角氏家臣としての大谷氏の軌跡は、池内氏が紹介された「天文日記」天文7年(1538)10月16日の記事以外に見いだせないようであるが、山中氏、三雲氏など甲賀郡の武家が六角氏に臣従あるいは同盟関係にあったことが知られ、織田信長との戦争では甲賀郡が六角氏の抵抗拠点ともなった歴史がある。 しかし、池内氏が追跡されたこれら大谷氏の動向や六角氏のその後の状況から、甲賀大谷氏出身の吉継が羽柴秀吉と接点を持ったことを想定することは極めて困難と言わざるを得ない。
池内氏はこの伝から、佐々木定綱が建久元年(1190)に延暦寺の紛争を生じ、延暦寺の強訴によって流罪となった折に、行吉も朝妻から大谷に隠棲したと推定されている。八幡神社の伝承に言う文治年間とも近く、一理ある推論といえる。ただ池内氏は、あくまで吉房の子というところにこだわられたため、「つじつまの合わない」事態に遭遇されたのではないかと推察する。小谷八幡神社の伝承を基本に考えれば、むしろ行吉の子孫がその後も大谷(小谷)に住み続けて吉継誕生に至るストーリーを構築できたのではなかったか。 近江説を構成する二つの伝承、すなわち在原姓大谷系図と小谷八幡神社の伝承は両立しない。そして、在原姓大谷系図は吉継出自説の根拠とは成り難く、わずかな可能性があるとすれば、吉行の子孫が、甲賀郡に移住した一族とは別に、現在の余呉町小谷に住み続けたと推定することで、吉継近江誕生説を唱える以外にないのではなかろうか。 |